第9話 クロエの決断
クロエがエルデ村に潜入して五日目。
報告書の下書きは、もう三回書き直していた。
一度目は事務的な報告書。「対象はセフィナ・フォルトゥーナ本人と確認。特異な能力を保有。詳細は要調査」
正確だが、何かが足りない。この報告を読んだヴァレリウスが何をするか、想像がついたからだ。
二度目は、少し脚色した報告書。「対象の能力は料理に限定的であり、戦略的価値は低い」
嘘だ。戦略的価値は計り知れない。この報告はいずれ露見する。
三度目は。
「……書けない」
クロエは宿代わりに借りた小屋で、羊皮紙を丸めてため息をついた。
五日間、セフィナと過ごして、わかったことがある。
セフィナ・フォルトゥーナは、聖女としてではなく、一人の料理人として、初めて自分の人生を生きている。
毎朝早起きして竈に火を入れ、鼻歌を歌いながらパンを焼く。
村人一人一人の好みを覚えて、味付けを変える。ボルスには濃い目の味。マーサには辛さ控えめ。子どもたちには甘いおやつ。
食事の後は村人たちと井戸端会議をし、午後は畑を手伝い、夕方からまた料理に取りかかる。
その顔は、王宮にいた頃とは別人だった。
「クロエさん、はいこれ」
小屋の戸を叩く声に振り返ると、セフィナがスープの入った壺を持って立っていた。
「今夜は冷えるから、温かいスープ作ったの。よかったらどうぞ」
「あ、ありがとうございます……わざわざすみません」
「ううん、ついでだから。クロエさん、最近なんだか疲れた顔してるから心配で」
セフィナは笑って小屋を出ていった。
スープを一口飲む。
かぼちゃのポタージュ。とろりとした甘さが、冷えた体を芯から温める。
同時に、密偵としての疲労――精神的な緊張が、すうっと溶けていく。
「……ずるいな、この人」
クロエは目を伏せた。
翌朝。
クロエは決断した。
村の外れの丘で、セフィナと二人きりになった時。
「セフィナさん」
「はい?」
「……私、行商人じゃないんです」
セフィナの手が止まった。洗濯物を干す手を止め、クロエを見つめる。
「王都の神殿から来ました。密偵です。あなたの正体を確認するために」
沈黙が流れた。
春風が、二人の間を吹き抜ける。
「……そう、ですか」
セフィナの声は、意外なほど穏やかだった。
「やっぱり、見つかっちゃいましたか」
「やっぱり、って……気づいてたんですか?」
「なんとなく。クロエさん、行商人にしては荷物の中身にあまり詳しくなかったし、村の構造をやたら観察してたから」
密偵として不覚だ。クロエは内心で舌を巻いた。セフィナは見た目よりずっと観察力がある。
「王都は、私をどうしたいんですか?」
「正直に言えば、まだわかりません。ただ、結界が弱まっていること、聖樹が枯れ始めていることは事実です。神殿長は、あなたの能力に関心を持っています」
「……戻れ、と言われるんでしょうか」
セフィナの声に、かすかな震えがあった。
恐怖ではない。それは、もっと切実な感情だった。
「セフィナさん」
クロエは真っ直ぐにセフィナを見た。
「私は、嘘の報告書を出します」
「え?」
「あなたは前聖女とは別人だった、と報告します。少なくとも、今は」
セフィナが目を見開いた。
「そんなことしたら、クロエさんが――」
「いずれバレるかもしれません。でも、時間は稼げます。その間に、あなたはこの村を守る準備をしてください」
「どうして……」
「あなたのスープを飲んだからです」
クロエは苦笑した。
「冗談に聞こえるかもしれませんが、本気です。あのスープを飲んで、思い出したんです。……密偵になる前、私にもこういう温かさをくれる人がいたなって。あの頃の自分なら、どちらを選ぶかなって」
セフィナの目に、涙が浮かんだ。
「クロエさん……」
「泣かないでください。泣かれると困るので」
「だって……」
「それに、私も少しわがままを言っていいですか」
「はい」
「……もう少し、この村にいてもいいですか。もちろん、行商人として。密偵としてではなく」
セフィナは涙を拭いて、笑った。
それは、クロエがこれまで見た中で一番綺麗な笑顔だった。
「もちろんです。クロエさんの分のごはんも、ちゃんと作りますからね」
こうして、エルデ村の住人は一人増えた。




