第7話 密偵クロエの任務
同じ頃、王都。
神殿長ヴァレリウスは、ますます深刻な表情で執務室にこもっていた。
聖樹の衰弱は日に日に進行している。かつて王都の空を緑色に染めていた聖樹の光は弱々しくなり、葉の半分が枯れ落ちた。
結界も穴だらけだ。先週、王都の外壁近くに下級魔物が二体侵入し、騎士団が慌てて討伐する騒ぎがあった。かつてなら結界が弾いていたはずの雑魚魔物すら、もう防げない。
セレスティナは毎日神殿で祈りを捧げているが、結界は回復しない。適性値【21】の力をもってしても、セフィナが十五年かけて編み上げた結界を再構築することはできなかった。
「おのれ……あの小娘、何を仕込んでいたのだ」
ヴァレリウスは苛立たしげに呟いた。
セフィナが意図的に結界に細工をしたのではないかと疑っている。もちろん、そんな事実はない。セフィナはただ誠実に、毎日の務めを果たしていただけだ。
「神殿長、辺境から奇妙な報告が上がっております」
部下の神官が書類を差し出した。
「エルデ村という辺境の寒村で、住民の能力が異常に向上しているとのこと。また、同村に『食べると強くなる料理を作る女性』がいるという噂が、冒険者ギルドを中心に広まっています」
「辺境の噂話など――」
と言いかけて、ヴァレリウスは止まった。
エルデ村。辺境。食べると強くなる料理。
まさか。
「その女の名前はわかるか」
「セフィナ、と名乗っているようです。元は王都にいたとか」
ヴァレリウスの顔色が変わった。
「……密偵を送れ。その女の正体を確認しろ。そしてもし前聖女であるならば――」
「であるならば?」
「……まだ何も言うな。まず確認だ」
ヴァレリウスは、自分が追放に賛同した立場であることを思い出し、言葉を濁した。
こうして、王都から一人の密偵がエルデ村に派遣された。
名前はクロエ・ヴァイス。
二十代半ばの女性で、神殿直属の情報部に所属する凄腕の密偵だ。変装と潜入を得意とし、これまで数々の機密任務を成功させてきた。
明るい金髪を質素な三つ編みにまとめ、旅の行商人に扮している。荷車には布地や日用品を積み、「行商のクロエ」としてエルデ村を訪れる手はずだ。
「辺境のエルデ村か……」
馬車に揺られながら、クロエは任務書を読み返した。
『エルデ村在住の「セフィナ」なる女性の身元を調査せよ。前聖女セフィナ・フォルトゥーナとの関連を確認し、能力の詳細を報告すること。なお、本件は極秘任務とする』
前聖女セフィナ・フォルトゥーナ。
クロエは彼女を直接知っている。正確に言えば、遠くから見たことがある程度だが。
神殿の廊下で、いつも疲れた顔をしながらも優しく微笑んでいた女性。夜遅くまで祈りを捧げ、誰よりも早く起きて聖樹の世話をしていた女性。
追放の知らせを聞いた時、クロエは正直に言えば心が痛んだ。だが、密偵に私情は禁物だ。
王都から馬車で四日。
エルデ村に到着したクロエは、まず村の外観に驚いた。
「……報告書と違う」
事前情報では、二十軒ほどの寒村で、産業もなく人口は減少傾向とあった。
しかし、目の前の村は活気に溢れていた。畑は青々と茂り、子どもたちは広場で笑い声を上げ、大人たちは生き生きとした表情で働いている。
村の規模自体は変わっていないのに、空気がまるで違う。
「こんにちは、行商のクロエと申します。お邪魔してもよろしいですか?」
にっこりと営業スマイルを浮かべ、村の入り口で声をかけた。
「おお、行商人! 珍しいねえ!」
マーサが駆け寄ってきた。
「月イチの行商人以外が来るなんて。何を売ってるんだい?」
「布地や糸、針などの日用品です。他の村を回った帰りで、こちらの村にも立ち寄ってみました」
「そりゃ助かる! ちょうど布が足りなくてねえ。……あ、お腹空いてない? うちのセフィナちゃんがちょうど夕飯作ってるよ」
うちのセフィナちゃん。
もうすっかり村の一員らしい。
クロエは内心で任務モードに切り替えながら、笑顔で答えた。
「ぜひいただきたいです」
広場に案内されると、すでにテーブルが並べられ、村人たちが集まっていた。
そして、湯気の立つ大鍋の前に立つ一人の女性。
栗色の髪。穏やかな眼差し。エプロン姿。
――間違いない。セフィナ・フォルトゥーナだ。
クロエの心臓が跳ねた。やはり前聖女がここにいた。
だが、クロエが知るセフィナとは雰囲気が違った。
王宮にいた頃のセフィナは、いつもどこか疲れていて、笑顔の奥に無理が透けていた。
今のセフィナは、心から楽しそうだ。顔色もいい。料理をしながら鼻歌を歌っている。
「今日は川魚のアクアパッツァと、焼きたてのフォカッチャです。行商人さんもどうぞ、たくさん食べてくださいね」
セフィナは人懐っこい笑顔でクロエに皿を渡した。
クロエは礼を言って受け取り、席に着いた。
アクアパッツァ。川魚をトマトと香草で煮込んだ料理。
見た目は素朴だが、香りがすごい。魚臭さは一切なく、トマトの甘酸っぱさとハーブの爽やかさが食欲をそそる。
フォカッチャはふっくらと焼き上がり、表面にはローズマリーとオリーブオイルが香る。
クロエはスプーンを口に運んだ。
――瞬間、体の奥で何かが弾けた。
「っ……!」
密偵として鍛え上げた五感が、一気に研ぎ澄まされる。
魔力が体内を駆け巡り、視界が鮮明になり、聴覚が拡張される。心身の疲労が嘘のように消え失せ、代わりに底知れない活力が湧き上がる。
これは。
クロエは密偵として、あらゆる魔道具や強化薬を試したことがある。だが、それらのどれよりも。
「何……これ……」
「美味しいでしょ?」
マーサが隣でにやにやしている。
「セフィナちゃんの飯を初めて食べた人は、みんなそういう顔するんだよ」
クロエは動揺を悟られまいと、すぐに表情を整えた。
だが、内心では混乱していた。
これは料理の域を超えている。
聖女の力だ。それも、治癒ではない。強化。浄化。活性化。
こんな力があるなら、なぜ王宮ではわからなかったのか。なぜ適性値に表れなかったのか。
そして――なぜ、こんな人材を追放したのか。
クロエはセフィナを見つめた。
当の本人は、子どもたちにフォカッチャをちぎって配りながら、幸せそうに笑っている。自分の料理がどれほどの力を秘めているか、まるで自覚がない様子だ。
「……参ったな」
クロエは小さく呟いた。
密偵としての自分が、報告書の文面を組み立てている。「対象は前聖女セフィナ・フォルトゥーナと確認。未知の能力を保有しており――」
だが、一人の人間としての自分が、別のことを考えていた。
この人を王都に戻したら。
またあの疲れた顔に戻るのではないか。
この笑顔が消えるのではないか。
クロエ・ヴァイスは、二十年の密偵人生で初めて、任務と良心の間で揺れていた。




