第5話 角猪とセフィナのシチュー
夕方、ボルスは本当に角猪を仕留めて帰ってきた。
それも二頭。
「いやあ、自分でも信じられねえ!」
ボルスは村の広場に巨大な猪を並べ、興奮冷めやらぬ様子で語った。
角猪は辺境の森に棲む大型魔物で、鋼鉄のような毛皮と岩をも砕く角を持つ危険な獣だ。通常、討伐には熟練の冒険者パーティーが必要とされる。
「一頭目は正面からぶん殴ったら倒れた。二頭目は逃げようとしたから追いかけて捕まえた」
「ぶん殴った……」
セフィナは絶句した。
「走ったら追いつけたんだよ。今の俺、どうかしてるぜ! ハハハ!」
村人たちは歓声を上げた。角猪の肉は高級食材として知られ、毛皮は上質な防具の素材になる。一頭でも仕留められれば村に大きな収入をもたらすのに、二頭とは。
「セフィナさん、約束通り料理頼むよ!」
「は、はい。頑張ります」
セフィナは角猪の肉を受け取り、さっそく台所に向かった。
角猪の肉は赤身が多く、筋が硬い。普通に焼くと固くて食べにくい。
だが、セフィナにはレシピがある。
まず、肉を大きめに切り分けて塩を擦り込む。ローズマリーとタイムを刻んで肉にまぶし、しばらく寝かせる。
その間に、芋と豆と、今朝畑で採れた異常に立派な人参(昨日の残り汁効果)を刻む。
今日のメニューは、角猪肉の煮込みシチュー。
大鍋に少量の油を引き、肉の表面を焼く。じゅう、と美味しそうな音が台所に響く。
焼き色がついたら一度取り出し、同じ鍋で野菜を炒める。玉ねぎの代わりに、野生のリーキを使う。甘い香りが立ち上る。
そこに水を注ぎ、肉を戻す。
香草の束を加え、蓋をして弱火でことこと。
料理をしながら、セフィナはいつものように祈っていた。
みんなが喜んでくれますように。
疲れた体が癒されますように。
明日も元気に過ごせますように。
その祈りが、シチューにどんな効果をもたらしているか、セフィナは知らない。
二時間後。
蓋を開けると、琥珀色のスープにほろほろに煮崩れた肉と、とろとろの野菜が浮かんでいた。
仕上げに塩で味を整え、刻んだパセリを散らす。
「できました」
村の広場に大鍋を運ぶと、あまりの香りに犬までもが尻尾を振ってやってきた。
「うおお、なんだこの匂い!」
「もう我慢できん!」
村人たちが椀を手に殺到する。
セフィナは一人一人にたっぷりよそい、自分で焼いたパンを添えた。
最初の一口は、やはりボルスだった。
スプーンでシチューをすくい、口に運ぶ。
肉が舌の上でほどける。旨味がじわりと広がり、香草の香りが鼻を抜ける。芋はとろとろに溶けてスープに甘みを加え、豆がほくほくとした食感のアクセントになっている。
「…………」
ボルスの目から、涙が落ちた。
「おい、ボルス、泣くなよ……」
「うるせえ……うめえもん食ったら泣くだろ……」
あちこちで鼻をすする音が聞こえる。
セフィナの料理は、ただ美味しいだけではなかった。
食べた人の心の奥底にある疲れや痛みを、そっと包み込むような温かさがあった。
それは味覚を超えた、魂に触れるような体験だった。
「セフィナさん」
マーサが、涙を拭きながら言った。
「あんた、王都で何をしてたのか知らないけど……あんたはここにいるべき人だよ。この村は、あんたを待ってた気がするんだ」
「マーサさん……」
セフィナの目にも、じわりと涙が浮かんだ。
王宮では、セフィナの料理を褒めてくれる人はいなかった。
「聖女が厨房に立つなど」「身分を弁えなさい」「料理は料理人の仕事です」
そう言われ続けた十五年間。
ここでは、みんなが笑ってくれる。
ここでは、セフィナの料理が誰かの力になる。
「……ありがとうございます。私、この村が好きです」
そう言って笑ったセフィナの姿を、村人たちは後に語り継ぐことになる。
「あの夜のシチューを食べた俺たちは、翌日から別人になった」と。
事実、シチューの効果は朝食の比ではなかった。
翌朝、ボルスの身体能力はさらに跳ね上がり、素手で岩壁を登れるようになった。マーサは無意識に大地魔法を使って畑を耕し始めた。子どもたちの魔法の腕は日に日に上達し、村の老人たちは十歳は若返ったかのように元気になった。
そして、エルデ村の異変は、少しずつ周辺にも伝わり始めていた。
「辺境のエルデ村に、すごい料理を作る女がいるらしい」
「その飯を食うと、体が強くなるんだと」
「嘘だろ、そんな馬鹿な話……」
噂は、冒険者ギルドや商人を通じて広がっていく。
やがてその噂は、王都にも届くことになる。
――だが、それはもう少し先の話。
今はただ、辺境の小さな村で、元聖女が楽しそうに料理をしている。
それだけの、ささやかで温かな日常。
「さて、明日は何を作ろうかな」
星空の下、セフィナは幸せそうにレシピ帳をめくった。




