第2話 辺境の村エルデ
王都から馬車を乗り継いで五日。
セフィナは辺境の村エルデに辿り着いた。
第一印象は、「小さい」だった。
石造りの家が二十軒ほど、なだらかな丘に点在している。村の中央には古びた井戸と、申し訳程度の広場。その周りに、雑貨屋と酒場を兼ねたような建物が一軒。
村の東には深い森が広がり、西には痩せた畑が続いている。
王都の華やかさとは別世界だ。
「……素敵」
セフィナは思わず呟いた。
空が広い。空気が澄んでいる。鳥の声がこんなに近くに聞こえるのは、生まれて初めてかもしれない。
王宮では、窓の外の景色さえゆっくり眺める余裕がなかったのだ。
「あんた、旅の人かい?」
声をかけてきたのは、日に焼けた顔の中年女性だった。頭にスカーフを巻き、エプロン姿で畑から上がってきたところらしい。
「はい。あの、ガレス・ドレイクさんのご紹介で参りました。マーサさん、でいらっしゃいますか?」
「あらまあ、ガレスの! あの子ったら、手紙の一本もよこさないくせに。……ああ、あたしがマーサだよ。で、あんたは?」
「セフィナと申します。元、その……王都で少し働いていまして。事情があって、新しい暮らしの場所を探しているんです」
聖女だったとは言わなかった。変に気を遣われるのは嫌だったし、もう聖女ではないのだから。
「ふうん。ま、事情は人それぞれだ。この村は人手が足りないくらいだし、働く気があるなら大歓迎だよ。空き家が一軒あるから、好きに使いな」
マーサの気さくさに、セフィナの緊張がほどけた。
「ありがとうございます。あの、私、料理が得意なんです。何かお手伝いできることがあれば――」
「料理? そいつは助かる! この村の飯ときたら、塩と肉しか知らないような連中ばかりだからね。あたしも偉そうなことは言えないけど」
マーサは豪快に笑い、セフィナを空き家まで案内してくれた。
空き家は、こぢんまりとした平屋だった。
土壁に木の梁。小さな窓から陽光が差し込み、埃が金色に舞っている。
簡素な寝台と、古びたテーブル。そして――
「あら、竈がある」
台所の隅に、煤けた石の竈があった。使い込まれた鉄鍋が一つ、横に転がっている。
「前の住人が猟師でね。自分で煮炊きしてたのさ。もう何年も前に町へ出ちまったけど」
「使っていいですか?」
「もちろん。全部あんたのだよ」
セフィナは竈の前にしゃがみ込み、そっと手を触れた。
石はひんやりと冷たい。でも、ここに火が入ったら。ここで料理ができたら。
それだけで、この場所が「自分の居場所」になる気がした。
「マーサさん。この村には、食材はどんなものがありますか?」
「そうだねえ……森で獲れる鹿肉や兎肉、川魚。畑は正直あんまり育たなくてね、芋と豆くらいだ。香草は野生のが少し。あとは、月に一度の行商人が塩や小麦を持ってくるくらいかな」
「十分です」
セフィナの目が輝いた。
レシピ帳を開く。王宮の厨房で試行錯誤して書き溜めたレシピは、実は素朴な食材で作れるものが多い。高級食材に頼らず、工夫と手間で美味しくする。それがセフィナの料理の信条だった。
「とりあえず今夜、何か作らせてもらってもいいですか? お世話になったお礼に」
「お、いいのかい? じゃあ遠慮なく。村の連中も呼ぶよ。みんなあんたに興味津々だろうしね」
マーサは嬉しそうに出ていった。
セフィナは早速、家の掃除に取りかかった。窓を開け放し、埃を払い、床を拭く。竈の煤を落とし、鉄鍋を磨く。
聖女時代、身の回りのことは侍女たちがやってくれていた。でも、セフィナは自分で動くのが好きだった。体を動かすと、余計なことを考えずに済む。
午後になると、マーサが食材を持ってきてくれた。
鹿肉の塊、川魚を数匹、芋、豆、野生のローズマリーとタイム。
「これだけあれば十分です」
セフィナはエプロンを締めた。
レシピ帳をめくりながら、今夜のメニューを決める。
鹿肉の赤ワイン煮込み――は、ワインがない。
では、鹿肉の香草焼き。芋のポタージュ。川魚のハーブ蒸し。豆のガレット。
王宮のように豪華な食材はないけれど、セフィナの引き出しは深い。
鹿肉は丁寧に筋を取り、塩と香草で下味をつける。芋は薄く切って水にさらし、甘みを引き出す。川魚は内臓を取り、腹にタイムを詰める。
竈に火を入れると、家全体がじんわりと温まった。
料理をしている時間は、いつだって幸せだ。
食材と対話するように、手を動かす。火加減を見極め、香りを確かめ、味を整える。
それは祈りに似ている、とセフィナは思う。
でも、祈りよりもずっと自由で、ずっと楽しい。
夕方になると、マーサの声が外から聞こえた。
「セフィナちゃん、みんな来たよー!」
ドアを開けると、村人たちが十人ほど集まっていた。
猟師風の屈強な男。赤ら顔の老人。子どもを抱えた若い母親。好奇心いっぱいの子どもたち。
みんな、少し緊張した面持ちでセフィナを見ている。
「はじめまして、セフィナです。今日はささやかですが、お食事を用意しました。よかったら召し上がってください」
テーブルに並べた料理を見て、村人たちの目が丸くなった。
「え、これ全部あの食材で作ったの?」
「なんだこの匂い……すげえいい匂いがする……」
「鹿肉ってこんな風にできるんだ」
最初に箸を――正確にはフォークをつけたのは、村一番の猟師だという大男のボルスだった。
鹿肉の香草焼きを一口。
もぐ、もぐ。
「…………」
沈黙が流れた。
村人たちが固唾を飲んで見守る中、ボルスはゆっくりとフォークを置き――
「……うめえ」
その一言に、堰を切ったように全員が料理に群がった。
「何これ、芋がこんなに甘いの初めて!」
「魚の臭みが全然ない! むしろ香りがいい!」
「この豆の焼いたやつ、外はカリカリで中はもちもちで……なにこれ……」
子どもたちは目を輝かせ、大人たちは感嘆の声を上げた。
マーサなどは涙ぐんでいる。
「あんた、天才だよ。この村に来てくれてよかった……」
「あはは、大袈裟ですよ。普通の家庭料理ですってば」
セフィナは照れ笑いを浮かべながら、みんなが美味しそうに食べる姿を眺めた。
この景色が、好きだ。
自分の料理で、誰かが笑ってくれる。
聖女として人々を癒していた時とは、また違った温かさが胸に広がる。
ここで暮らそう、とセフィナは決めた。
もう聖女でなくていい。ここで料理を作って、静かに暮らす。
それだけで十分幸せだ。
――そう思っていた。
異変に気づいたのは、翌朝のことだった。




