第1話 お前はもう用済みだ
王宮の謁見の間に、セフィナ・フォルトゥーナの静かな息遣いだけが響いていた。
白い大理石の床に映る自分の姿が、ひどくちっぽけに見える。
十五年間、毎日のようにこの場所を歩いた。神殿と王宮を往復し、病に苦しむ人々を癒し、魔物に傷ついた騎士たちを治療し、枯れかけた聖樹に祈りを捧げた。
それが聖女としての務めだった。
それが、セフィナの人生のすべてだった。
「――聞いているのか、セフィナ」
王太子クラウディウスの冷たい声が、回想を断ち切る。
金色の髪に碧眼。端正な顔立ちには、かつてセフィナに優しく微笑みかけてくれた面影はもうない。
その隣に立つ少女――セレスティナと名乗った彼女が、不安そうにセフィナを見つめている。亜麻色の髪に大きな琥珀色の瞳。年の頃は十六、七だろうか。セフィナより五つほど若い。
「新しい聖女が見つかった以上、お前に用はない」
クラウディウスは淡々と続けた。
「セレスティナの聖女としての適性は、お前の三倍以上だ。神殿長も認めている。――お前は今日限りで聖女の任を解く。王都からも退去してもらう」
三倍。
その数字が、胸に小さな棘のように刺さった。
セフィナはこの十五年間、自分なりに精一杯やってきたつもりだった。眠る間も惜しんで人々を癒した日もあった。倒れるまで祈り続けた夜もあった。
でも、それは所詮「適性が低い聖女」の悪あがきだったのだろうか。
「……承知いたしました」
驚くほど穏やかな声が、自分の口から出た。
悲しくないわけではない。悔しくないわけでもない。
ただ、どこか予感のようなものがあったのだ。最近、神殿長の態度がよそよそしくなっていたこと。騎士団の治療依頼が減っていたこと。クラウディウスが目を合わせなくなっていたこと。
パズルのピースが、嫌な形で嵌っていく。
「ただ、一つだけお願いがあります」
「……何だ」
「セレスティナさんに、少しだけ引き継ぎの時間をいただけませんか。聖樹の世話の方法や、神殿の結界の維持手順など、知っておいていただいた方がいいことが――」
「必要ない」
クラウディウスは遮った。
「セレスティナの力があれば、お前のやっていた小手先の技術など不要だ。それに、引き継ぎなど口実にして居座られても困る」
居座る。
その言葉に、さすがにセフィナの胸が痛んだ。
十五年間、この国のために尽くしてきた人間に対する言葉だろうか。
「あの、王太子殿下……」
セレスティナが恐る恐る口を開いた。
「せめて、引き継ぎだけでも……」
「セレスティナは黙っていなさい。お前が気を遣う必要はない」
クラウディウスがぴしゃりと言い、セレスティナは肩を竦めた。
セフィナはその少女に、小さく微笑んだ。
「大丈夫ですよ、セレスティナさん。あなたは優しい方なのですね。……きっと、素敵な聖女になれます」
セレスティナの琥珀の瞳が、潤んで揺れた。
「セフィナ、さん……」
「では、私はこれで失礼します。……この国のご加護をお祈りしています」
セフィナは深く一礼して、謁見の間を後にした。
長い廊下を歩く。
すれ違う侍女たちが、気まずそうに目を逸らす。もう噂は広まっているのだろう。
――追放。
その二文字が、足を重くする。
自室に戻ると、荷物は驚くほど少なかった。
聖女の衣装は置いていかなければならない。支給されていた宝飾品も、書物も、すべて王宮の所有物だ。
セフィナの手元に残ったのは、幼い頃に母からもらったお守りの小さなペンダントと、愛用のエプロン、そして数冊のレシピ帳だけだった。
レシピ帳。
セフィナにとって、料理は唯一の趣味だった。聖女の務めの合間に厨房に立ち、気分転換に料理を作る。それだけが、張り詰めた日々の息抜きだった。
王宮の料理長には「聖女様が厨房に立つなど」と何度も止められたけれど、セフィナは笑ってごまかし続けた。
「……さて」
小さな革の鞄に荷物を詰め、セフィナは部屋を見回した。
十五年間過ごした部屋。窓からは王都の街並みと、遠くに聖樹の淡い光が見えた。
名残惜しい。
でも、もう振り返らないと決めた。
王宮の正門で、一人の騎士がセフィナを待っていた。
赤毛を短く刈り上げた、がっしりとした体格の青年。副騎士団長のガレス・ドレイクだ。
「セフィナ様」
ガレスの声は、掠れていた。
「……本当に、行ってしまうのですか」
「ええ。もう決まったことですから」
「殿下は間違っている。あなたがこの国にどれほど貢献してきたか、俺たち騎士団は誰よりも知っています。あなたの治癒がなければ、死んでいた仲間が何人もいる」
「ありがとう、ガレスさん。でも、新しい聖女様の力は本物のようですし、きっとこの国はもっと良くなりますよ」
セフィナは笑った。
ガレスは唇を噛み、何か言いたそうにしていたが、やがて一通の封筒を差し出した。
「……せめてこれを。騎士団の有志で集めた路銀です。それと、辺境のエルデ村に俺の叔母が住んでいます。小さな村ですが、人は温かい。行く当てがなければ、訪ねてみてください」
「ガレスさん……」
セフィナの目に、初めて涙が滲んだ。
追放を告げられた時は泣かなかったのに。
人の優しさには、弱いのだ。
「ありがとうございます。大切に使わせていただきます」
封筒を受け取り、セフィナは王都の門をくぐった。
春の風が、頬を撫でる。
振り返ると、白亜の王宮が朝日に輝いていた。
美しい眺めだ。でも、もうあそこにセフィナの居場所はない。
「さて、と」
セフィナは前を向いた。
辺境のエルデ村。ガレスの叔母。
とりあえずの目的地はできた。
「自由、かあ……」
呟いてみると、その言葉は思ったよりも心地よかった。
もう朝から晩まで祈らなくていい。倒れるまで治癒魔法を使わなくていい。好きな時に起きて、好きな時に眠って、好きな時に料理ができる。
セフィナの足取りは、いつしか軽くなっていた。




