たった一人の意味
霧の深い森の奥、苔むした岩陰で、二人は息を殺して隠れていた。
スタンリーはリナを強く抱きしめたまま、目を閉じていた。
頭の中の痛みは、もうなかった。
代わりに、すべてが戻ってきていた。
王国の冷たい玉座。
国王の赤い目と、牙のような歯。
人を食らう化け物の笑い声。
「さらえ」という冷たい命令。
何十人も娘を連れ去った自分の手。
第一王子と第二王子の冷たい視線。
そして——雨の夜、リナを連れ出した瞬間。
リナの震える声。
「ありがとう……おじさま。」
スタンリーの体が、小さく震えた。
「リナ……俺は、すべて思い出した。」
彼はゆっくりと目をあけ、リナの顔を両手で包んだ。
彼女の瞳は、涙で濡れていたが、穏やかだった。
「俺は人さらいのスタンリーだ。
国王の犬として、何十人も娘をさらった怪物。
お前をさらったのも、俺だ。
最初は、国王の生け贄から逃がすためだった。
だが……その後、俺は逃げられなくなった。
お前と一緒にいる日々が、俺のすべてになった。」
リナは静かに頷き、彼の頰に手を当てた。
「知っていたわ。
最初から、あなたが私の異母兄だって。
母親が違う、秘密の兄妹。
でも、あなたは私を傷つけなかった。
むしろ、王国から守ってくれた。
私は、あの夜から、あなたを選んだの。」
スタンリーの胸が、熱く締め付けられた。
長年、怪物として生きてきた自分が、初めて「人間」として感じた瞬間。
記憶を失っていた間も、無意識に守り続けていた想い。
それが、今、はっきりと形になった。
「俺は……何をしたかった人間だったんだ?
人を傷つける怪物になりたかったわけじゃない。
ただ、誰かに必要とされたかっただけだ。
お前だけが、俺にそれをくれた。
たった一人の妹だけが、俺の生きる意味だった。」
彼はリナの額に自分の額を押し当て、囁いた。
「人さらいのスタンリーとして……
最後に、たった一人の妹を守る。
それが、俺の答えだ。」
リナの涙が、スタンリーの頰を伝った。
二人は、静かに唇を重ねた。
霧の森の中で、たった一つの温もりが、すべてだった。
遠くから、カイルとグリムの声が聞こえてきた。
二人が森を捜索して合流したのだ。
カイル「スタンリー! リナ!
無事か!?
王国軍が大挙して来てるぞ!」
グリムが息を切らして言った。
「俺、斥候の影を見た!
国王の化け物が、また娘を欲しがってるって……」
スタンリーはリナを抱きしめたまま、ゆっくり立ち上がった。
「王都へ行く。
俺の命と引き換えに、お前を自由にする。
これが、人さらいのスタンリーの、最後の仕事だ。」
リナは頷き、微笑んだ。
「一緒に、行きましょう。
異母兄妹として……最後まで。」
四人は、霧を切り裂くように歩き始めた。
背後で、兵士たちの叫びが響く。
「人さらいのスタンリー! 見つけたぞ!」
呼び覚まされた名が、夜の森に木霊する。
しかしスタンリーは、もう振り返らなかった。
たった一人の妹の為に。
それだけが、彼のすべてだった。




