11.2 極限環境における経済活動の終端像
本研究で示した枠組みを最後まで追うと、極限環境における経済活動は、破壊や崩壊によって終わるのではなく、役割を終えることで静かに周縁化される像として現れる。ここで想定される終端は、資本主義の否定や貨幣経済の失敗を意味しない。むしろ、それらが長い時間にわたり有効に機能してきた事実を前提としたうえで、参照される必要がなくなる局面を指している。
カロリー基準による再記述を通じて明らかになったのは、経済制度が生存を媒介する装置として成立している限り、その存在は必然であるという点である。しかし、生存が制度を経由せずに継続可能となる条件が満たされた場合、経済活動は存続しつつも、行為選択の中心から退いていく。価格、交換、蓄積といった操作は消滅しないが、それらを用いなくとも生活が成り立つため、参照されない操作として残る。
この終端像において、貨幣経済は崩壊しない。制度は維持され、記録も残り、場合によっては再び利用される余地を持つ。ただし、それは生存を保証するための不可欠な条件ではなくなる。経済は、生活を支える基盤から、選択可能な補助的手段へと位置づけを変える。その結果として、経済活動は終わるのではなく、生活から切り離される。
重要なのは、この過程が意図的に設計されたものではない点である。理念や政策によって経済を廃する必要はなく、また倫理的判断によって交換を拒否する必要もない。生存に関わる操作が計測や清算を必要としなくなった結果として、経済が自然に用いられなくなる。この意味で、終端像は未来予測ではなく、条件を最後まで記述した際に現れる帰結である。
極限環境において観測され得る経済活動の終端像とは、制度が否定される未来ではない。制度が機能を失うのでもない。制度が役割を終えた後も、生活が継続してしまう状態である。経済は消えず、ただ生活の中心から外れる。そのとき残るのは、生存という事実だけであり、そこでは経済という語自体が、もはや必要とされない。
本研究が描いた終端像は、結論ではなく記述の停止点である。これ以上、経済について語るための参照軸が存在しない地点において、経済活動は静かに終わる。そこに到達したとき、終わったのは制度ではなく、制度について語る必然性そのものである。




