プロローグ 志願
川の流れは、もはや子どもの膝を濡らすのがやっとだった。
それでも水を瓶に分け入れて天秤棒で担ぎ、ふらつきながら村へと戻っていた。
「……兄ちゃん……村、どうなっちゃうの?」
「大丈夫だ。エドは心配するな」
「でも……畑も、枯れちゃったよ……」
「だからこそだ。明日から俺は戦場に行く。手柄を立てて出世して、金を稼いで、部下を連れて帰ってくる」
「……兄ちゃんが?」
「あぁ、絶対だ! 約束する。だから、エドは家を頼んだぞ、カール兄さんやダリル兄さんの言うことをちゃんと聞くんだ」
そう言うと、エドは俺をじっと見上げて、大きく頷いた。
「……うん、わかった。俺、頑張るよ。母さんや姉ちゃん、マリナを守る」
「おう。頼んだぞ」
本当は、怖い。戦なんて一度も見たことがない。
俺は大した人間じゃないのに……弟からのその信頼が、胸に痛かった。
村の入り口に差しかかる。
夏だというのに、畑には緑がほとんどない。ひび割れた土に、草さえ色を失い、風に舞うのは土埃ばかり。
これがリデル村——俺が生まれ育った場所だった。
「エレナ姉さん、世話になった人に挨拶してくるよ」
「……そう、行ってらっしゃい……」
そう返したものの、エレナの声はかすかに震えていた。
村を歩くユートに、村人たちは励ましの言葉をかけてくれる者もいたが、声はどこか弱々しい。
「ユート……無理するなよ……」
「生きて帰ってこいよ。約束だ」
誰もが分かっているのだ。戦に行けば、戻れない者の方が多いことを。
やがて村長の家の前に立った。
本来は村長に挨拶をするつもりだったが、どうしても顔を見たい相手がいた。
村長ヘルマンの娘、セシリア。同い年の幼馴染で初恋の相手。
今日が最後の機会かもしれないと思うと、胸がざわついた。
「……ヘルマン村長、ユートです」
門の前でそう名乗ると、戸口の陰から村長が顔を出した。
「ユートか……そんなところで立ってないで、中に入りなさい」
中に入ると土間で針仕事をしているセシリアの姿が見えた。黙々と糸を通し、顔は下向きのまま。
「村長、明日から行ってきます」
「そうか……確かユートが配属されるのは、他の者たちと一緒だったな?」
「はい。第七防衛旅団所属の三等兵に決まりました」
ユートの村からはユートだけでなく数人の若者が志願している。貧しい村にとって、支度金は大きな動機だった。村長はその事情を十分に承知している。
「ほう、そうか。第七は北部戦線だろう。山間の西部戦線に比べれば厳しいかもしれんが、頑張れば出世も夢じゃない。……将来はユート様と呼ばなきゃいけん日が来るかもしれんぞ」
その言いぶりは前線の被害の多さを意図的に隠そうとするようだった。
だが俺は、どう考えても「様」と呼ばれる器じゃない。ただの臆病者だ。
「ほれ、セシリア。ユートに挨拶せんか? 幼馴染だろうに」
セシリアは顔を上げずに、繕い針を動かしながら、そっけなく答える。
「ん? ああ、行ってらっしゃい。気をつけてね」
「……すまんな、ユート。気にするな」
村長はため息を吐いて頭を下げる。
「はは……大丈夫です。気にしてませんから」
胸の奥では、やっぱり俺なんか誰にも頼りにされていないんだろうと、苦い声がした。
そのとき、家の戸が勢いよく開かれ、男がやって来た。大柄で陽気な顔つき、村祭の綱引きで優勝した青年——兄ダリルの友人だ。
「村長! セシリア! 俺だ! 別れの挨拶に来たぞ! 明日から行ってくるぜ! 帝国兵どもを叩きのめしてやる。わははは!」
「ノックぐらいせんか! いきなり入ってくる奴がおるか!」
「すまんすまん、でもなぁ、明日からのことを思うとワクワクしちまってよ。俺の強さを見せてやれるんだって思うとさぁ!」
その大仰な口上に、セシリアも思わず手を止め、顔が赤らむ。
「セシリア! 手柄を立てて貴族になって迎えに来てやる。そしたらお前もお屋敷の婦人だ!」
「本当? 私が……貴族の婦人になれるの?」
「当たり前だろ! 俺が敵を蹴散らして出世したら、お前も貴族様になるんだ!」
ふと、陽気な青年は傍らにいるユートに気づき、しらけた顔で訊ねた。
「お、ユート、いたのか。何か用か?」
「いや、もう用はない。行くよ」
「そうか。おう、ダリルに後で来いって伝えとけよ。支度金で酒を仕入れた。特別に飲ませてやるからな、わはは!」
ユートは胸に小さな棘が残しながら、村長の家をあとにした。
自分には、あの青年のように誰かを惹きつける力はない。笑っても声を張っても、ただ空回りするだけだ。
ふと、村の端を見上げると、谷の向こうの崖が見えた。
——獣人の住むドラヴァニア獣人領。
谷を挟んだ崖の上には青々とした原生林が広がり、雨雲が立ち込め、鳥や獣の声が響いている。
一方でリデル村は乾き切り、飢えに喘ぐばかり。
——同じ空の下なのに、どうしてこんなに違うのか。
俺は拳を握り、ただ見上げることしかできなかった。
家に戻ると、母リーナが寝床に伏していた。咳が止まらず、顔色は悪い。隣には姉エレナが付き添っている。
「母さん。お世話になった人には挨拶してきたよ」
「ユート、こっちにおいで」
俺は近づき、その手を握る。母さんの骨ばかりになった指先が震えていた。
「家族のために行かせてしまって……ごめんね」
「違うよ。母さん、俺は有名になって名を残したいだけさ。欲深いんだ、俺は」
本当は家族のために行く。それでも、母を心配させたくなくて冗談めかした。
「それでもいい……ユート、ちゃんと生きて帰ってきて」
横に座るエレナ姉さんは黙って俺を見つめていた。涙をこらえているのが分かった。
夜、村は静まり返り、外に出て空を見上げる。
(……明日から戦場。生きて帰れるのか……いや、帰るんだ。どんな形でも……たとえ俺が俺でなくなっても、身体さえ残るなら──必ず村へ戻る)
崖の上の森に稲光が走り、雷鳴が遠くに響いた。




