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麗華が話し出そうとした時、図書室のドアがゆっくりと開いた。入ってきたのは、ごみ置き場や廊下で会った清掃業者だった。
「中で物音がしたもので誰かいるのかと思ったら、さっきのお嬢さんじゃないですか。ここで何をしてるんですか?」
麗華はとっさに手にしていたサファイアを上着で隠した。
「いえ、ちょっと退屈しのぎに本を読もうかと思って」
清掃業者は怪訝そうな表情をした。
「ここはもう何年も使われてないって管理人の方に聞きましたけど」
「そうみたいですね。だからどんな本があるのか気になっちゃって」
「面白い本を見つけました?」清掃業者は麗華をじろじろ観察しながら近づいてくる。
「とくに気になった本はなかったですね。あ、そういえば奥にテーブルがあるじゃないですか。そのテーブルの脚の部分に何か光るものが貼り付けてあるんですけど、取れないんです」
「テーブル?光るもの?」
清掃業者は興味を持ったようで、麗華の指さす方向に歩いていく。一番奥にあるテーブルに来ると、
「どの脚ですか?」
「左の脚です」
清掃業者は屈み込んで脚を調べ始めた。その瞬間に麗華はタクといっしょに入り口ドアにダッシュして図書室を出た。出るとすぐにドアを閉めて鍵をかけてしまった。
間もなく中から、
「おい、何をしてる、ドアを開けろ」という怒鳴るような声が聞こえてきた。
「麗華、どうして清掃業者を閉じ込めたの?」タクも麗華の行動が理解できない。
「ごみ置き場に行った時、鍵がかかってたでしょ。四桁の数字を合わせるタイプだったんだけど、わたしが数字を合わせる前の並び方が0220だったんだよ。それとこの図書室のドアの鍵の並び方も0220だった。あとフウマの部屋にあった折りたたみ式の自転車にかけられてたダイヤル式ワイヤー錠の並び方もやっぱり0220だったの。だいたいの人は数字式の鍵をかけた後、ランダムな数字にするけど、人によっては無意識に決まった数字にしちゃうことってあるんだよね。だからこれらの鍵をした人は同一人物だと思ったの。フウマの部屋にあった自転車はリクのだった。そして、ごみ置き場にマネキンを捨てたのは犯人だった。だからフウマを殺したのはリク。そのリクが清掃業者になりすまして、わたしたちの行動を監視してたんだよ」
麗華がそこまで話すと図書室の中から、
「そうだよ。おれがあいつを殺したんだ。宝石を独り占めしようとしたからな」さっきの優しそうな声から一転、どすの利いた声に変わった。
「やっぱりあなただったんだ。でもなんで、わたしを犯人にしようとしたの?」
「誰でもよかったんだよ。お前はしょっちゅう、おれたちの部屋を覗いてたから利用してやろうと思ったんだ」
覗き見してたのを見られてたんだ。麗華は今更ながら後悔した。
「でもなんですぐに警察に通報しなかったの?あなたたちの部屋には、わたしの私物があるから、警察はわたしを犯人と思うでしょ」
「お前は神山さんのとこに行ったろ。もしかしたら、宝石を見つけてくれるんじゃないかって期待して泳がせておいたのさ。実際、見つけてくれたしな」
麗華は手の中で光り輝くサファイアを見つめた。これのために一人の命が失われてしまった。
「もう一つだけ教えて。あなたが火災報知器を鳴らしたの?」
「あれはストーカー野郎のしわざだ。住民の注意をそらして、おれたちの部屋に入ろうとしたんだ」口調からすると、うそではないようだ。
「今から警察を呼ぶから自首して」サファイアを握りしめる。
「呼んでもいいけど、おれは自首しない。お前が殺人犯として逮捕されるだけだ」
予想していた返答だった。
「じゃあこのサファイアあげたら自首する?」
数秒間、沈黙が続いた。麗華にはそれが数分間に感じた。
「わかった。自首するよ」
二人の男性警察官がマンションに駆け込んできた。彼らは管理人室で図書室の鍵の数字を聞き出して鍵を開け、中にいるリクを拘束して手錠をかけた。リクはパトカーに連行されていった。
麗華たちはリクが逮捕される模様を廊下の陰から覗いていた。しばらくしてからパトカーに近づいていった。中から四十代くらいの警察官が降りてきた。
「何かご用ですか?」
「あの、さっきこれを拾ったんですけど、たぶんその人が落としたものだと思います」パトカーの中のリクを指さす。
「そうですか、渡しておきます」警察官はとくに不審がる様子もなく麗華からサファイアを受け取った。
麗華が立ち去ろうとしないので、
「他に何か?」
「さっき住民の方が110番通報してるの聞いたんですけど、その人、罪を認めてるんですか」
警察官は答えるかどうか迷っているようだったが、
「認めてますよ」とだけ答えた。
「ありがとうございました」
足早にその場を立ち去った。腕時計を見た。午後六時二十三分だった。
新幹線は思ったよりも空いていた。車窓から流れる大都会の宝石を散りばめたようなネオンは、時間とともに数を減らしていく。
それらのきらめくような光は、上京する時には夢と希望とエネルギーの象徴だったが、今の麗華にとっては眩しくて手で遮りたいだけのものに過ぎなかった。
一人で物思いにふけりたかったから、スマホの電源は切ってある。そうしないと、すぐにタクとおしゃべりを始めてしまうからだ。
今日の出来事を思い返す。引っ越し当日に、とんだ事件に巻き込まれたものだ。都会は最後までわたしに意地悪だった。今日に限らず、上京した十年はあまり良い思い出がない。カフェのアルバイトで失敗してしまったこと、駅前で声をかけられて、ついて行ったらパワーストーンという高額な石を買わされたこと、好きになった男はみんなダメ男だったこと、オークションに受からなかったこと。
十年の記憶が鮮やかに脳裏に蘇る。でもたった一つだけ良いことがあった。タクと出会えたことだ。タクがいなかったら、もっと早く故郷に帰っていただろう。ありがとう、タク。
麗華はスマホに手を伸ばした。だが電源を入れるのは思いとどまった。いつまでもタクに頼ってばかりはいられない。タクという名の人工知能には。
スマホから窓に視線を移す。外は墨を流したように真っ暗で、明かりはほとんど見えない。都会から遠ざかっていることが嬉しかった。
真っ暗な車窓のキャンバスに、麗華は新たな人生の計画を描いていた。