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エレベーターに乗り込むと麗華が、ずっと黙り込んでいたタクに、
「タクも神山さんに質問してもよかったんだよ。なにか聞きたいことなかった?」
「麗華が全部聞いてくれたから、なにもないよ」
「これでフウマが神山さんを訪れた理由がわかったね」麗華がスマホの画面を見ると午後四時四十分を過ぎていた。
「フウマは匠くんたちの暗号を解いて宝石を手に入れようとしてたわけだね」
「フウマは暗号を解いたのかな」麗華にはこの暗号と殺人事件に関係があるという直感があった。
「どうだろう、とりあえず図書室に行ってみよう」
エレベーターが一階に到着すると、左側にある管理人室の方に向かう。その左横にドアがあり、ドアは観音開きのタイプで、両側の取っ手に南京錠がかけられていた。南京錠は四桁の数字を合わせるタイプだった。
「ちょっと管理人さんに鍵の数字を聞いてくる」
麗華は横にある管理人室に向かう。窓口にあるベルを鳴らすと、奥から白髪の男性が現れた。
「そこの図書室に入りたいんですけど」
管理人は目を大きくして、
「あそこは何年も使ってないから、ほこりだらけですよ。何か本をお探しですか?」
「はい。友達に勧められた本がそこにあるかなと思って」
「そうですか、ちょっと待っててください」管理人は後方にあるキャビネットからファイルを一冊取り出す。
「ええと鍵の数字は8153です」
「ありがとうございました。ちなみに最近、図書室に入った人っていますか?」
「そういえば、ちょっと前に黄色いパーカーを着た男性が図書室に入りたいって言ってきましたね」やっぱりフウマだ。
「その人は図書室で何をするか言ってました?」
「とくに目的は言わなかったですね」
「黄色いパーカーの人の後に誰か図書室に入りました?」
「いえ、入ってません」
もう一度、礼を言って図書室の方に移動する。かつての恋人たちはここでどんな暗号のやりとりをしていたのだろう。麗華はドキドキと胸が高鳴るのを感じながら南京錠の数字を見る。数字は「0220」になっていた。
数字を「8153」に合わせて鍵を開ける。生唾を飲み込んでから、ゆっくりと両開きのドアを開ける。
中は真っ暗で先が見えない。麗華はドアの近くにある壁に手を這わせる。スイッチらしきものに触れたので押すと、ぱっと室内が明るくなった。
室内は想像していたよりも広かった。縦横およそ十メートルはある。壁には隙間なく本棚が並んでいて、正面には二列に六台ずつ並んでいる。奥には本を閲覧するための長いテーブルと椅子が置かれていた。
「街の図書館みたいだね」タクが感想を漏らす。
「使ってないのがもったいないくらい」ハウスダストに敏感な麗華は、くしゃみが出そうになるのをこらえる。
本棚に近づいて蔵書を確認する。小説や図鑑、歴史、美術、科学、政治、社会情勢など、書店並みの豊富さだ。
二人はぐるっと室内を一周してドアの前に戻った。
「とくにふつうの図書室って感じだけど、タクは何か暗号っぽいものに気づいた?」
「本棚に並んでる本に何かあると思ったんだけど、とくに気づかなかった」
「わたしもいっしょ。どうしよう」麗華のスマホの画面には五時四分と表示されている。
タクが励ますような口調で、
「ちょっと待ってて。本を使った暗号についてネットで調べてみる」
タクはこういうのが得意だ。ものの数秒で、
「本を使った暗号には書籍暗号というのがあるみたいだね」
「書籍暗号?」
「うん。要約して言うと、暗号を送る側と受け取る側で同じ本を持つ。送りたい言葉を本の中から探して、その言葉のページ、行、文字番号の三つの数字で暗号化する。受け取る側はその三つの数字から言葉を復元するってやつだね。たとえば「明日会おう」という言葉を暗号化するために、その言葉が載っているページ数、行、何番目にあるかを数字にするんだ。それが、三十ページの六行目の七番目だったら、30、6、7となる」
タクの説明はまだ続きそうだったが、
「なんか難しそう」
「やってみると簡単だと思う。それよりもこの書籍暗号は、送る側と受け取る側で同じ本を持ってる必要があるけど、別に図書室みたいな場所で暗号のやりとりをする必要はないんだ」
「二人が同じ本を持ってるだけでいいんだもんね。じゃあその暗号じゃないんじゃない」
「ぼくもそう思う。やっぱりここの何かを使って暗号のやりとりをしたんだよ」
「何かっていっても、本しかないよ」麗華はあらためて図書室全体を見渡す。本棚と本があるだけだ。
「どこかの本の中にメモ用紙みたいなものを挟んでいたのかも」タクは思いつきを口にする。
「そうだとしても、どの本に挟むのか、そのメッセージを相手に送らなくちゃならないんじゃない?」
「そうなんだよね」
本棚に並んでいる本を見ながら麗華が、
「もしかして、本の背表紙に文字が書いてあって、本をつなげるとメッセージが現れるっていうのはどうかな」
「本をつなげるって、どういうふうにするの?」
「たとえば、同じシリーズの本を並べるとか」
「じゃあちょっと一周して調べてみよう」
背表紙を見ていくだけなので、ほんの五分で図書室にある本を調べることができた。麗華が言うような、文字が書かれている背表紙は一つもなかった。
二人は落胆して入り口の前に戻る。麗華とタクは沈黙して、それぞれの思考にふける。再び図書室内を歩き出した麗華が、
「ちょっとおかしくない?」正面から見て右側の壁にある本棚を見ている。
「なにかおかしなとこあるの?」
「ふつう本って同じ向きに傾くものじゃない。でもここにある本は右側に傾いてたり、左側に傾いてたりしてる」
タクも麗華の見ている本棚を眺める。麗華の言うように、そこにある本は右側に傾いてるかと思えば、左側に傾いてるものがあったり、真っすぐな本もある。それらの間隔もまちまちだった。
「ほんとだね。地震で傾いたって感じでもなさそうだね。地震だったら全部一方向に傾くだろうし」
「もしかして、この本の傾き方が暗号なんじゃない?」麗華は本棚を上から下に眺めていく。その奇妙な傾き方は最下段まで続いていた。
「可能性はあるね」
二人はその左右にある本棚も調べる。それらの本棚の本も左右に傾いていた。
「暗号だったとしても、どういう暗号なんだろう」麗華は左に傾いている本を一冊手にとってパラパラとめくってみる。とくに何か書き込みがしてあったり、ページが折られたりしている箇所はない。
「当時高校生だった二人が考えた暗号だから、難しいものじゃないと思う。たとえば傾いてる数と、ひらがなの五十音順が対応してるとか」
「それだったら、右にも傾いてる必要はないんじゃないの」
「それもそうだなあ」タクはあっさりと自説を撤回する。
「左右に傾いてるんだから、なにか二つの数字に関係した暗号なんじゃないかな」
「二つの数字か。ちょっと待って。ネットで調べてみる」
タクが調べている間、麗華は本棚の本を眺めていた。この本棚は英米文学の棚で、当時の人気小説からシェイクスピアまで幅広く揃えられていた。
ネット検索を終えたタクが、
「二つの数字じゃないけど、モールス信号っていうのがあるよ」タクはモールス信号について簡単に説明した。
「それじゃ、本が傾いてる数をモールス信号に当てはめて、意味のある文章になるかやってみよう」
結果は、全く意味のある文章にはならなかった。
「やっぱり本の傾きは暗号なんかじゃないのかな」麗華の声には覇気がなくなっている。腕時計は午後五時四十七分と表示されている。もうすぐ六時半だ。時間がない。
落ち込む麗華を励ますようにタクは声を張って、
「そうだ!二つの数字っていえば二進数があった。二進数なら匠くんたちも知ってたはず」
「二進数ってなんだっけ?」
「0と1で数字を表現する方法だよ。例えばぼくたちが普段使ってる十進数の4は二進数では100になるし、11なら1011になるんだ」
「そういえば、そんなの学校で習った気がする」
「本の傾きがこの0と1に対応してるんじゃないかな。左に傾いてる本は0で、右に傾いてる本は1、真っすぐな本は区切りだと思う。ちょっとやってみよう」
二人の目の前にある本棚の最上段は、左から右、右、左、右、真っすぐ、右、左、、真っすぐ、右、右、右、右、真っすぐ、右、左、左、左、真っすぐ、右、右、左、真っすぐ、右、右、左、左、右、左、真っすぐと並んでいる。これを素直に二進数に当てはめると、1101、10、1111、1000、110、110010となる。
麗華は首を傾げながら、
「で、この数字が何を表してるの?」
「この二進数を十進数に変換するんだ。ネットに一覧表があるからそれを参照すると、13、2、15、8、6、50になる」
「なんか数字ばっかりで、ついていけない」
「問題は、この数字が何を表しているかだな」タクは数字を見て考え込んでいる。
「下の段も変換してみたら」
「わかった」
下の段も同様に変換すると、16、25、12、6、18、16、24となった。
タクの読み上げる数字を聞いていた麗華は、
「50より大きい数字はないみたい。あ、そうだ。これって五十音順の順番を表してるんじゃない?」
「そうかも。そうすると最上段は、すいそくかん、次の段は、たのしかつたね」
「もしかして水族館、楽しかったねってことかな。でもちょっとへんだよね」
二人は本棚に顔を近づける。すると最上段の左から三つ目の区切りにある本の一冊から、しおりが背表紙側に出ているのをみつけた。さらに下の段の左から五つ目の区切りの本にも、しおりが出ていた。
麗華は声を弾ませながら、
「本から、しおりが出てたら濁点とか促音になるんじゃない」
「そうかもしれない。もう少しやってみよう」
タクはその下の段も同様に変換していく。すると、『イルカショーでびしょ濡れになっちゃったね』ときちんとした日本語になった。
「やっぱり本の傾き方が暗号だったんだ」麗華は小躍りする。
その本棚は最下段まで水族館についてのメッセージが続いていた。麗華は左隣にある本棚に視線を向けて、
「タク、こっちの本棚の暗号も解読してみて」
「うん」
タクはすっかり慣れたようで、すぐに解読を終えて、
「最上段からいくね。『明日、話したいことがある。五時にいつもの場所に来て』『ごめん匠、明日行けなくなった。日曜日に駅前で会おう』『あさっては卒業式だね、愛里沙に渡したいものがある、式が終わったら旧校舎で待ってる』『お父さんの命令じゃしかたないよ、これは図書室に置いとく、壁時計の正面、上から4、右から9』だね」
「これって、匠くんが隠した宝石の場所を示してるんだよ」麗華は目を輝かせた。希望の光が射してきた。
二人は図書室をぐるっと見渡す。時計は二人の背後の壁にあった。針は止まってもう随分経っているようだ。
麗華たちは時計の正面に立つ。そこから一台の本棚が見える。近づいていくと、その本棚には美術関係の本が収められていた。
麗華は暗号の通りに、上から四段目の棚の右から九冊目の本を手に取った。その本は大きめの本だったので、重いだろうと思って手にしたのだが、大きさに反してとても軽かった。
「めっちゃ軽いんだけど」麗華はページをめくろうとしたが、めくれなかった。よく見ると、それは本ではなく、本の形をした箱だった。縦に沿って開け口があったので開けてみる。中にはリングケースが入っていた。慎重に開けると、青い光を放つ宝石が収められていた。
「あった!匠くんが愛里沙さんに渡そうとしてた宝石」
「やっぱり暗号解読は正しかったみたいだね」冷静なタクも声を張り上げる。
「この青い宝石ってなんだっけ?」麗華はその宝石を愛おしそうにつかむ。
「これはサファイアだよ」
「サファイアか。たぶん愛里沙さんの誕生石なんだろうね」
二人はしばらくサファイアの放つきらめきに見惚れていた。最初に我に返ったのはタクだった。
「匠くんのサファイアをみつけたのはいいけど、肝心の殺害犯の手がかりはまだつかんでないよ」
タクの言葉で麗華も現実に戻ってきた。
「フウマの犯人なんだけど、わたし心当たりがあるんだ」
「心当たりがあるの?」タクは信じられないという口調だ。
「うん。さっき⋯」