7
その音に反応して六階のいくつかのドアが開いて、何事かと顔を覗かせた。その中には磯貝の姿もあった。彼女は辺りを見ながら近づいてきた。
「火事ですか?」
「この階ではなさそうです」
住人たちはベランダから中庭を見たり、連絡通路の方を覗いたりしている。彼らを見て麗華は不安になった。
「ひょっとして、わたしの部屋の方かも」
麗華たちは連絡通路を猛ダッシュで渡る。麗華の部屋がある棟からは煙や火の手は上がっていなかった。念のため、麗華は自室に入る。部屋の中はさっきと同じ状態で異常はない。
再び廊下に出るとタクが落ち着いた声で、
「どこで火事が起きたんだろう」
「外に出て調べてみよう」
二人は非常階段で一階に降りて中庭を経由して、マンションの正面玄関に向かった。そこには数人の住人がいて立ち話をしていた。
麗華は彼らに近づいていって話しかけた。
「すいません、どこで火事があったんですか?」
その中の一人、五十代の小太りの女性が、
「まだわからないんです。もしかしたら、いたずらかもしれないですね」
「いたずらですか」
「前にも何度かあったんです」
話していると、消防車のサイレンが聞こえてきて、どんどん音が大きくなってくる。どうやらここに来るようだ。
タクが押し殺した声で、
「誰かが119番に通報したみたいだね。ひょっとしたら、110番にも通報して警察が来るかもしれない。ぼくたちは警察って名乗ってるから、警察の人と鉢合わせるのは避けた方がいいんじゃない」
「そうだね。いったん部屋に戻って待機しよう」
麗華たちは人目を避けながら、いま来たルートを通って自室に戻った。部屋に入って二、三分もすると火災警報器の音は止んだ。荷造りを終えた、がらんとした部屋ではすることがないので、タクと雑談をして過ごした。
「じゃあそろそろ部屋から出てみる?」麗華は腕時計に目を落とす。デジタル時計は午後三時三十八分と表示されている。
「とりあえず、一階の管理人室に行ってみよう。管理人さんなら何があったのか把握してると思う」
廊下には人の気配はなかった。そのままエレベーターで一階に向かう。エレベーターを降りるとすぐ左側に管理人室がある。そこにも住人は誰もいなかった。
ちらと玄関の方に顔を向ける。消防車やパトカーが停まっている様子もない。管理人室の窓口についているインターホンを押す。すぐに白髪の男性が窓口に現れた。
「613号室の岡本と言います。さっき火災警報器が鳴ってたみたいですけど、どこかで火事だったんですか?」
管理人は愛想よく、
「あれはどうもいたずらだったみたいですね。消防の方といっしょにマンション内を調べたんですが、どこも異常はありませんでした。今、防犯カメラの映像をチェックしてるところなんですが、不審者はまだ映っていないですね」
「前にもいたずらはあったんですか?」
「わたしがここに来てから一年になるんですけど、二度ほどありました」
「その時は犯人はみつかったんですか?」
「いえ、みつからなかったです」
麗華たちは管理人に礼を言って管理人室から離れた。エレベーターに乗ってからタクが口を開く。
「ただのいたずらでよかったよ。もし、どこかで火事でも起きたら、殺害犯探しどころじゃないからね」
麗華が九階のボタンを押しながら、
「うん、そうだね。でもなんか引っかかるんだよね。タイミングがよすぎるっていうか」
「麗華は、フウマを殺した犯人が火災警報器を鳴らしたって思ってるの?」
「可能性はあると思う」
「そうだとしたら、なんでそんなことをしたんだろう」
「わかんない」
エレベーターのドアが開いた。九階の廊下に人の気配はない。まっすぐに915号室の前に向かう。表札を確認する。神山保と書かれているので間違いない。
インターホンを押す。五秒ほど間を置いて、
「はい」と男性の声で応答があった。
インターホン越しに、
「わたしS署の者なんですが、ちょっとお話をお聞きしたいことがありまして」
警戒するような声音で、
「どういう話ですか?」
「六階の双葉さんのことなんです」
麗華が返事を待っているとドアが開いて、紺色の甚平姿で、真っ白いあごひげを生やした男性が現れた。九十才にしては若いなと麗華は思った。
老人は麗華に値踏みするような視線を向けながら、
「双葉くんがどうかしましたか?」と聞いてきた。
「双葉さんが最近ストーカー被害を訴えていまして、六階の住民の方に聞き込みをしていましたら、双葉さんがこちらに来てることがあると聞きまして、どういう用件でこちらに来ていたのかお聞きしたいんですが」
男性の顔に一瞬、ためらいの表情が表れたが、
「彼がここに来たのは一ヶ月くらい前でした。五十年ほど前のロマンスを聞かせてほしいと言ってきたんです」
「ロマンス?」予想外の言葉に麗華は驚いた。
「ええ。今から四十八年前、ちょうどこのマンションができたばかりの頃に、稲森家と吉村家という家族がほぼ同じ時期に引っ越してきたんです。その家族にはそれぞれ匠くんと愛里沙さんというお子さんがいました。匠くんと愛里沙さんは、同年齢で部屋も近かったこともあって、すぐに仲良くなったんです。いっしょに勉強したり、食事を食べにいったりしてるのを何回も目にしましたよ。彼らが間もなく付き合い始めたと聞いても驚きませんでした」
神山がいったん、言葉を途切れさせたので麗華がすかさず、
「双葉さんは昔の若者の恋愛を聞いて、どうしようとしてたのでしょう?」
神山は、そう慌てるなというように微笑んだ。
「二人の交際は順調でした。匠くんは高校を卒業したらプロポーズすると考えていたようです。でも彼らの親御さん、とくに愛里沙さんのお父さんが二人の交際に反対したんです。おそらく、匠くんの家庭がそれほど裕福ではなかったことと、うわさによると、匠くんの親戚の誰かが犯罪行為で警察に逮捕されたということも反対の理由だったかもしれません」
「男女の交際に親が口を出すなんて最低ですね」麗華は思ったことを率直に言った。
「子どもの交際に親が反対するのは昔はけっこうあったんですよ。それで二人で駆け落ちしたりね」
「匠くんと愛里沙さんも駆け落ちしたんですか?」
神山は含みのある笑顔を見せながら、
「彼らはまだ高校生で、お金だってそんなに持っていなかっただろうから、駆け落ちはしなかったんです。彼らは親にばれないように会ってたんですが、余計なことをする人はいつの時代もいるもので、彼らがこそこそ会ってることを愛里沙さんのお父さんに告げ口した人がいたんです。愛里沙さんのお父さんは怒ってしまって、今度、二人でいるところを見かけたら引っ越しをするって言い出したんです」
「それでどうなったんですか?」
「彼らは表向きは会わなくなりました。その代わり、会わなくてもお互いの気持ちを伝える方法を考え出したんです。当時は今みたいにスマホやパソコンなんかないですから、伝えたいことがあれば手紙か電話です。でも手紙も電話も彼らの親御さんにばれるかもしれない。そこで彼らは暗号を使ってコミュニケーションをとることにしたんです」
「暗号?」予想外の言葉に、麗華は目を丸くする。
「そうです。このマンションの一階に、今は使われていない部屋があるんですが、そこは当時、図書室だったんです。その図書室に匠くんと愛里沙さんが、ある日を境に急に足繁く入るようになったんです。それも二人いっしょではなくて、一人ずつです。それでわたしは、彼らが図書室の中にあるものを暗号に使って意思を伝えあってるんだなと考えました。彼らがいない時を見計らって図書室に入って、彼らの暗号を探したのですが、結局みつけることができなかったんです」
「ほんとは暗号のやりとりなんかしてなかったんじゃないですか?二人ともただ読書してただけとか」
神山は大げさに首を横に振った。
「いえ、読書ではありません。彼らが図書室に入った時、入口の前を見張ってたことがあるんですが、彼らが中にいるのはせいぜい二、三分でしたから」
「神山さんは二人が暗号のやりとりをしてたと確信してるんですか」
「はい、それは確かです」
神山がそうまで言うのなら、やはり二人は暗号のやりとりをしていたのだろうと麗華は信じることにした。
「ところで双葉さんは昔の若者の恋愛の何に興味を持っていたのでしょう」麗華が聞きたいことはこの一点だ。
「彼がわたしに聞いてきたのはその暗号についてです。匠くんは高校を卒業したら愛里沙さんにプロポーズするつもりだったことはお話しましたね。匠くんはプロポーズの時に、資産家の叔父さんからもらった宝石を愛里沙さんに渡すつもりだったようです。もちろん、直接会って手渡しというわけにはいかないので、匠くんはその宝石が置いてある場所を暗号にして愛里沙さんに伝えようとしました。でも不幸なことに、卒業日前日に交通事故で匠くんは亡くなってしまいました。その数日後、愛里沙さん一家は突然引っ越しをしてしまい、その後、音信不通になってしまったんです」一気に話したせいか、神山はいったん言葉を切って深呼吸した。
「つまり匠くんは愛里沙さんに宝石を渡せなかった?」
「そういうことです。そしてその宝石はまだ匠くんが置いた場所にあると思われます」
「双葉さんはその宝石のありかを示す暗号についてたずねるために神山さんを訪れたってことですか」
麗華の言葉に神山はゆっくりとうなずいた。
「そうです。どこから聞き知ったのか、双葉さんはここに来るなり、匠くんたちのエピソードを持ち出してきました。以前、図書室だった部屋で暗号のやりとりをしていたと教えると、お礼も言わずに走り去って行きましたよ」微笑しながら言った。
「ありがとうございました。いろいろ参考になりました」
「刑事さんも図書室を調べるんですか?」
「いちおう調べてみます」
「暗号の謎が解けたら教えてください」
これ以上、長居すると刑事でないことがばれそうなので辞去することにした。