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エレベーターに乗って一階のボタンを押す。たった六階から降りるだけなのに、やけに長く感じられた。
一階に到着すると、左手にある管理人室に軽く会釈をして左にある連絡通路に進んでいく。右側には玄関ドアがずらっと並んでいて、左側には自転車置き場と中庭が見える。中庭にある大きな木の周りにはハトが数羽歩きながら、のんきそうにエサをついばんでいる。
舗装路を突き当たりまで歩いていって、そこから二部屋分、左に進む。そこから上空を見上げると、ちょうどフウマの部屋が見えた。
その辺りの地面は土で、明け方まで降っていた雨のせいで軟らかくなっていた。
「このへんだと思うんだけど、へこんでるような跡はないみたい」麗華は地面に顔を近づけて観察している。
「犯人が真下に落としたとは限らないよ。ちょっと勢いをつけて落としたのかも」タクの指摘を受けて、麗華はもう少し中寄りの土を見ていく。すると縦横四十センチのくぼみのような跡ができているのを見つけた。
麗華はスマホを近づけて、そのくぼみの写真を撮った。
「これじゃない。よく見ると人の形っぽくなってる」
形は不鮮明で歪んではいるが、確かに人が横たわっているような感じの跡だった。
「間違いない、マネキンを落とした跡だよ」
「ベランダからマネキンを落とすなんて大胆なことしたよね。誰かに見られるかもしれないとか考えなかったのかな?」
「もしかしたら誰か見た人がいるかもしれないね」
「ちょっと聞いてみよう」
二人で話し合った結果、フウマの部屋の下の階の住人に話を聞いてみることにした。502号室、402号室、302号室の住人は留守のようだった。一階は集会室になっているので、残るは202号室のみだ。
麗華がインターホンを押すと、少し間があってからドアがゆっくりと開いた。
細めに開いたドアの隙間から、七十代半ばの人の良さそうな男性の顔が現れた。
「なにかご用でしょうか?」
「ちょっとお聞きしたいことがあるんですけど」麗華はマネキンが上の階から落ちてこなかったかという聞き方はせずに、何かものが落ちてこなかったかと聞いた。
男性は驚いた表情をしながら、
「わたしは見てないですが、ひょっとしたら家内が見たかもしれません。家内はさっきまでベランダから外を眺めてましたから。でも」
男性がそれ以上、言葉を続けようとしないので、
「でも、どうかされました?」と促すと、
「家内はその、軽度の認知症なもので」
「かまいません、ちょっとお話させていただけませんか」
男性は一呼吸置いて、
「ではどうぞ」と二人を部屋に招き入れた。
整理整頓が行き届いたリビングルームを横切ってベランダに出る。右端に籐椅子が置いてあり、そこに桃色のカーディガンを羽織った七十才前後の女性が座っていた。麗華の姿を認めると、目が大きく見開かれた。
「わたしここに住んでいる岡本麗華と言います。突然おたずねしてしまって申し訳ありません。ちょっとお聞きしたいことがありまして」
麗華があらたまった声を出すと、
「麗華ちゃん、ひさしぶりね。元気だった?」
そう聞かれて麗華は記憶をたどった。この女性と会ったことはない。初対面だ。やはり女性の夫の言うように認知症なのかとがっかりしながら、
「元気でした、おばさんも元気そうで」と話を合わせることにした。
「そうでもないの。最近、胃腸の調子が良くないの」女性はお腹の辺りをさすった。
「ほんとですか、わたし胃腸に効く漢方知ってますよ。今度、持ってきてあげますよ」
さらに二言三言、雑談を交わしてから、
「あの、そういえばさっき自分の部屋から中庭を眺めてたら、人の形をしたものが上から落ちてきたような気がしたんですけど、おばさん、見ませんでした?」
麗華は期待せずに聞いたのだが、
「見たわよ。わたしここからそこの木に止まってる鳥を見るのが好きなの。ムクドリやハトがいるのよ。見てたら上からいきなり人が落ちてきたの。主人に言っても信じてくれなくって」
「それって何時ごろでした?」
「どうだったかしら。十一時過ぎだったんじゃないかしら」
その時間なら、つじつまが合う。
「その人の様子とか服装ってわかりました?」
女性は首を傾げる。
「一瞬だったからよく見えなかったんだけど、なんていうのフードがついた黄色っぽい上着を着てたみたい」
フウマの着ていたパーカーの特徴と同じだった。
「顔は見えました?」
「向こうを向いてたから見えなかったわ。あれ、そういえばわたしまだお昼ご飯食べてなかったわ」
麗華の肩越しに女性の夫が、
「昼はさっき食べたよ」と優しい口調で言った。
「そうだったかしら」
女性の夫が麗華の脇に立って、
「もうそろそろよろしいですか」
「はい、ありがとうございました」
202号室を出て廊下を左に向かって歩く。突き当たりには非常階段がある。人がいないことを確認してから麗華は囁くように、
「やっぱり犯人はベランダからマネキンを落としたんだよ」
タクも押し殺した声で、
「あのおばあさんの証言、信用できるかな」
「認知機能にちょっと問題があるって言っても、マネキンが上から落ちてくるみたいなことは妄想じゃないと思う」
「実際、地面にそれらしい跡もあったしね。犯人はマネキンを落下させてすぐに一階に行って回収したんだろうね」
廊下の突き当たりのドアを開けて、屋外の非常階段を降りていく。一階に来るとマネキンの跡が残っていた地点に向かう。そこから周囲をぐるっと見回してみる。中庭には一見してマネキンを隠せるようなところはない。
「中庭からどこかに運んだと思うんだけど」
「人にみつかる危険があるから、マンションの中ではないと思う」
タクの指摘で麗華は視線をマンションとは反対の方に向ける。中庭の先には道路をはさんで駐車場がある。
駐車場に停まっている車を見ながら麗華は、
「車に積んで運び去ったのかな」
「でも駐車場まで行くには道路を横切らなくちゃならないし、人目につきやすいんじゃない」
二人が話していると、マンションの前の通りをごみ収集車が走っていった。それを見た麗華は、
「そうだ!ごみ収集所に持ってったんだよ」
「その可能性は高いね。行ってみよう」
ごみ収集所は西棟の裏側にある。バイク置き場の横を通って裏側に出る。マンションの住人と思われる男性がこちらに向かって歩いてくる。男性が立ち去ると、ドアで仕切られた収集所の前に立つ。
ドアの取っ手には四桁の数字式の南京錠が取り付けてあった。マンションの住人である麗華は数字を暗記している。0220と並んでいる数字を3138に並べ替える。
中には大量のごみ袋があった。ごみ独特の臭いを我慢しながら、いくつもあるごみ袋を調べていく。目当てのものはすぐに見つかった。マネキンは、中身が分からないように黒い袋に入れてあった。
「あった!」麗華は思わず歓喜の声を上げてしまった。
袋から出したマネキンは何も身につけてはいなかった。地面に落下した衝撃だろうか、右手が胴体から外れそうになっている。
麗華はマネキンを一通り調べてから、
「これがそうだと思うんだけど違うかな?」
冷静な声でタクが、
「マネキンなんてそんなに捨てる人いないだろうから、これだと思うけど、これがフウマの部屋から落とされたっていう証拠があればいいんだけど」
麗華はもう一度マネキンを調べる。顔を近づけると、嗅いだことのある匂いがしてきた。
「やっぱりこれでいいんだよ。フウマの部屋と同じ匂いがする」
「匂いか。それは気づかなかった。ぼくは匂いに鈍感だから」
「これで、わたしが見たフウマは本物じゃなかったってことがはっきりしたね。でもそれが分かっても、犯人の手がかりにはならないね」麗華は大きく息を吐きながら肩を落とす。
「そんなことはないよ。麗華がフウマの部屋を覗いて、このマネキンのフウマを見たのが十一時十五分過ぎでしょ。それから麗華が部屋に駆けつけたのは二分後だから、犯人は十一時十五分から十一時十七分の間に玄関ドアを開けて廊下に出たんだよ」
「そっか。じゃあその時間帯にフウマと同じ階の住人で犯人が出ていくのを見た人がいるかもしれない」
「そういうこと。西棟の六階に戻ろう」
ごみ収集所から出ようとドアの方に振り向くと、そこに男性が立っていた。さっき会った新人の清掃員だった。
「きゃっ」
麗華は短い叫び声を出してしまった。
「驚かせてごめん。さっきここに入っていくのが見えたんで待ってたんだけど、なかなか出てこないからどうしたのかと思って。何か探してたの?」
図星だったので戸惑いながら、
「あ、いえ、その、ごみといっしょに化粧品を捨てちゃったみたいで探してたんです」とっさにうそをついた。
清掃員は麗華の肩越しに収集所の中を覗くような仕草をした。
「みつかったの?」
「ありました」麗華はたまたまジャケットのポケットに入っていたリップスティックを取り出して見せた。
「みつかってよかったね。もうすぐ収集車が来て回収していくから」
麗華は苦笑いをしながら、
「そういえばさっき六階にいた不審な人ってどうしました?」
「あの男はおれが声をかけたら、一目散に逃げてったよ」
「追いかけたりはしなかったんですか?」
「追いかけようとしたけど、逆上されたりしたらいやだからやめたよ」
「どっちの方に行ったか分かりますか?」
「非常階段を降りていったのは見たけど、そこからどこに行ったかは分からないなあ」
話していると、ごみ収集車が入ってきた。邪魔になるといけないので二人は清掃員に会釈をして収集所を後にした。