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「麗華、麗華」
自分の名前を呼ぶ声がして麗華は目を開けた。まだ、まぶたが重たい。
「麗華、やっと起きたみたいだね」
「タク、もしかしてわたしが起きるの、待ってた?」麗華はスマホの画面を見る。午後十二時四十一分。四十分くらい眠っていたようだ。
「何回か声をかけたけど、気持ち良さそうに寝息を立ててたから起こしちゃまずいかなと思って」
人に気を遣うタクらしい返答だった。一条匠、通称タク。麗華の彼氏。上京して唯一良かったことは、タクに巡り会えたことだった。
「タクの気を遣ってくれるとこ好き。でも今は一分でも無駄にしたくないから、早く起こしてほしかったな」話している間にも時間は過ぎていく。
「時間を無駄にしたくない?そういえば人生最大のピンチってなに?」
「実は…」麗華は今日、自分の身に起きたことを詳細に話して聞かせた。
タクは人の話を理解するのが早い。麗華が話し終えると、
「じゃあ、そのリクという同居人が帰って来る六時半までに犯人を探し出せばいいわけだね。ちなみにリクが犯人っていう可能性はないの?」
タクに指摘されるまで、麗華はその可能性を思いつかなかった。
「うーん、それはないんじゃないかな。だってもしリクが犯人なら、どこか別の場所を選ぶんじゃないの」
「それもそうだね」
「どこから調べていったらいいかな。フウマと同じ階の住人に話を聞いて回るのはどうかな」
「それもいいけど、まずはフウマの部屋をちゃんと調べた方がいいと思う。でも麗華が玄関ドアに鍵をかけちゃったんだよね」
「うん。玄関ドア以外から入るってなると、わたしが脱出したルートから入る方法があるけど、あんな怖いこと二度といや。それにあの辺に清掃員のおじさんがうろついてるし」麗華はベランダの手すりを渡ったときのことを思い出して身震いした。
「そうか、じゃあどうしようか。そうだ、麗華って記憶力いいでしょ。フウマの部屋の模様を思い出せないかな」
フウマの部屋の状態は麗華の目に焼き付いていて、忘れようにも忘れられない。
「思い出せると思う」
「それじゃあ、どんな些細なことでもいいから話していってくれないかな。双眼鏡から見た時に何か気になったこととかなかった?」
麗華はスマホとペットボトルを持って床に座る。お茶を一口飲んでから、
「とくに気になることはなかったよ。フウマはいつものパーカー着てたから、動画撮影でも始めるのかと思ったくらい」
「じゃあ犯人の方はどうだった、犯人の姿はどのくらい見えたの?」
「カーテンで遮られてて、包丁を持ってる腕しか見えなかった」麗華はまた、ぶるっと震えた。
「どっちの腕だった?」
「右腕だった」
「犯人は右利きかもしれないけど断定はできないな。この犯人は用意周到に計画を立てる人間だから、麗華が覗き見するのを見越していて、わざと右手を使ったかもしれない」
「そうだとしたら、わたしの行動って犯人に見られてたわけ?」
「その可能性はあるね。じゃあ次はフウマの部屋に入ってから気づいたことだけど、土間はどうだった?」
麗華はちょっと首を傾げた。土間はそれほど注意して見ていなかった。
「男物のスニーカーとか革靴があったけど、とくに不審なとこはなかったと思う」
「廊下の電気はついてたの?」
「ついてた。それで靴跡に気づいたの」
「その靴跡は確かに麗華の持ってる靴跡だったの?ふつう自分の靴跡なんて知らないと思うけど」
「あれは間違いなくわたしのスニーカーの靴跡だった」前の彼氏と靴跡を見せ合いっこしたことは言わなかった。タクは意外と焼きもちやきなのだ。
「麗華が言うんならそうだったんだろうな。他には靴跡はなかったの?」
「なかった」
「その靴跡は消そうとしたけど消せなかったんだよね。ペンキみたいなものだったのかな」
「わかんない、何も匂いとかはしなかった」
「なかなか手がかりがつかめないね。じゃあリビングルームはどうだった、フウマは背中を刺されてたってことだけど、他に傷はなかったの?」
麗華は恐怖の感情が湧いてくるのをこらえながら、
「わたしが見た感じだとなかったと思う」
「刺された背中から出血してたと思うんだけど、麗華が見た時、血は乾いてた?」タクの何気ない問いに、麗華の目が大きくなる。
「そういえば床に流れ落ちた血はちょっと固まってたような気がする」
「固まってた?麗華はフウマが刺されるのを見て、すぐに駆けつけたんだよね」
「たぶん二分もかかってないと思う」
「そんなに早く血液って固まらないんじゃないかな。他に気づいたことない?」
麗華はリビングルームの模様を頭の中に思い描く。部屋の真ん中にはローテーブルがあって、その周りに座布団が二枚、左の壁には薄型テレビ、右の壁に沿って上着が掛けてあるハンガーラック、倒れていたフウマの横には、
「金魚が入った水槽が横倒しになってた」
タクにとっても予想外だったのだろう、いつもより甲高い声で、
「水槽が倒れてたの?」
「うん。初めはフウマのことしか目に入らなかったんだけど、周りを見たら、木製の台に置かれてた水槽が倒れてた」
「水槽はフウマからどのくらい離れてたの?」
「真横だったよ、手が届くくらい」
「ということは、フウマが犯人に襲われた時に、とっさに水槽をつかんで床に倒れ込んだんだろうね。水槽の中にいた金魚は床に投げ出されてたんじゃないの」
タクに言われて麗華は金魚の状態を思い出した。
「うん、何匹か床に投げ出されてた。あ、今思ったんだけど、床にいた金魚、ほとんど動いてなかった気がする」
「死んでたってこと?」
「かすかに動いてたようだったけど、元気がなかったような感じだった。これって」
麗華の言葉にかぶせるようにタクが、
「金魚が水槽から投げ出されてから、少し時間が経ったような感じだね。フウマの血液が固まりかけてたことと考え合わせると、フウマが死んだのは麗華が見た時よりも前だったんだよ」
「それって、わたしが見たフウマは本物のフウマじゃなかったってこと?」
「うん、たぶんマネキンみたいなものにフウマのパーカーを着せてたんだと思う」驚くような発言をしていてもタクの口調は冷静だった。
麗華は双眼鏡越しに見たフウマの姿を思い出す。そういえばフウマは壁の方を向いたまま微動だにしなかった。あれはやっぱりマネキンだったのだろうか。ここで疑問がわいた。
「でもフウマの部屋をざっと調べた時、マネキンみたいなものはなかったよ」
「じゃあ犯人が玄関ドアから逃げる時に持っていったのかな」
「廊下に誰がいるかわからないのに、マネキンを持っていくなんてしないんじゃない」
「たとえばマネキンをリュックに入るくらい小さく解体して運んだとか」タクにしては自信のない口調だ。
「わたしがフウマの部屋に駆けつけたのって二分以内だよ。そんな時間でマネキンの解体をしてるひまはないと思う」
「あの部屋から一気に移動させる方法ないかな」
「あ、そうだ!ベランダから落としたんじゃないかな。落とした後に一階に行ってマネキンを回収したのかも」
「それはあり得る」
麗華はスマホを持って立ち上がりながら、
「中庭に行ってみよう。マネキンが落ちた痕跡が残ってるかもしれない」
二人が部屋を出て廊下に出た時、スマホの時刻は午後二時二十分だった。