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段ボール箱の天面をガムテープで隙間のないようにしっかりと貼り付ける。段ボール箱の側面には『衣類』とマジックペンで書かれていて、天面には宅配便の送り状が貼ってある。お届け先は秋田県、依頼主欄には岡本麗華。
岡本麗華はそれをリビングルームのドアの前に運ぶ。そこには同じ大きさの段ボール箱が十五個置かれていて、そこだけ見ると通販会社の倉庫みたいだった。
段ボール箱を床に置くと、麗華は部屋を振り返る。入居した日のようにがらんとした空間だった。彼女の十年の思い出が詰まった部屋。楽しいことも辛かったことも共にした部屋。東京という大都会から彼女を守ってくれた部屋。
あの時は夢と希望で心は満たされていた。今は彼女の心の方ががらんとしていた。
俳優になるのは小さい頃からの夢だった。小学三年の夏休みに父親が撮影したビデオではじめて俳優になりたいと宣言して以来、その夢に向かって突き進んできた。俳優になること以外、考えられなかった。
だが、その夢ははかなく散った。ベランダから見える桜の花びらのように。
東京に未練はなかった。自分のしてきたことに後悔もしていない。三日前に受けたオーディションの前日に、これで受からなかったら、田舎に帰ろうと決めていた。
麗華はもう一度、十年の思い出を重ねながら部屋を見渡していく。忘れ物はなにもない。そうやって視線が窓の前に来た時、思い出した。
大事なものを忘れるところだった。麗華は小走りで部屋を横切ってベランダに出る。外は久しぶりに雲一つない青空だった。正面には同じマンションの向かい側の部屋が見える。
ベランダ内に視線を戻すと、エアコンの室外機の上にぽつんと双眼鏡が置いてある。麗華はそれを手に取って手すりに体を預けるように立った。
双眼鏡を両眼に当てる。双眼鏡は、向かいの部屋のある一点で止まった。その部屋に双眼鏡を向けたのは今日が初めてではない。いつもその部屋だった。麗華と同じ六階の右から二部屋目。
今日もオレンジ色のカーテンが半分閉められていた。麗華はつい、いつもの習慣でその部屋を観察してしまう。ベランダに干してある洗濯物をしばらく眺めてから、窓の方に移動する。
腕時計に目をやると十一時十四分。フウマは今、部屋にいるのかな。リクは今、会社に行ってるはずだ。さっきベランダから中庭を見た時、スーツ姿のリクが歩いているのを見た。
フウマは、女性に人気のユーチューバーで、リクは会社勤めをしながら、フウマの動画編集や企画を考えたりしている男だ。二人は半年ほど前から同棲している。
麗華はフウマのファンだった。フウマがまだユーチューバーとして駆け出しの頃から彼を応援していた。彼の動画は欠かさずチェックしていたし、金銭的に余裕がある時は、投げ銭をしたりもした。フウマが心の支えだった。
麗華と同じマンションにフウマが住んでいることは偶然知った。それ以来、毎日のようにフウマの部屋を双眼鏡で覗くのが日課になっていた。
他人の部屋を覗くことに多少の罪悪感はあったが、フウマに対する思いがそれを上回っていた。
カーテンの左半分が閉められているので、部屋の様子はごく一部しか見えない。
双眼鏡の倍率を上げる。すると、黄色いパーカーを着たフウマが部屋の壁の方を向いて立っているのが見えた。
動画の撮影でもしてるのかなと思ったが、そうではないらしい。部屋の一点を見つめているようにも見える。
その時、カーテンで遮られている空間から、何かキラリとしたものが出てきた。
それが、手に握られている包丁であるのを認識するのに三秒とかからなかった。
「え?なに?」
包丁を持った右手は間合いをつめるようにフウマに近づいていくと、大きく振りかぶってフウマの背中めがけて振り下ろされた。
「危ない!」
と叫び声を上げると同時に、麗華は双眼鏡を放り投げて駆け出した。