返事はきちんと内容を確認してからしましょうね!
「茉里ちゃん、今度の土曜ってヒマ?」
昼休みのチャイムと同時にニコニコしながら近づいて来たのは、隣の課に所属している壱那さんだった。
人当たりの良さそうな笑顔に、ちょっと鼻にかかった高めの声。やや明るめの髪をまとめずにおろしていて、メイクに隙がないのはいつものことだ。これでアラフォーだなんて言われても、ぱっと見なら気がつかないよね。
「予定がないならオッケーでしょ?」
ちょっと返事が遅れただけなのに、自分に都合よく解釈するのはやめて欲しい。なんか、今回のお誘いも押しが強いなぁ。こちらは名前にちゃんづけで呼ばれるほど、あなたと親しい間柄だとは思ってない。あなたと同姓の佐藤さんが三人いるから、同僚たちに合わせて仕方なく名前で呼んでいるだけなんですけど。
年上だし勤続年数が長いから、面倒だけど気を使っているだけだと、いい加減気がついてくれないかな。私にとってはただ同じ職場に勤めている人ってだけなのに、同じアパートに住んでることがバレたせいか、たまにこんなふうに話しかけられてしまうのだ。
「ええっと、今度の土曜日とは、明日のことですよね? ずいぶん急ですけど何かあるのでしょうか?」
茉里はいまのところ、明日は予定が入っていない。だが、迂闊に空いていると返事をしてはいけないのだ。できるなら話も聞かずに断りたいところだが、壱那さんはどういうわけか上司受けが非常にいい。ここで無下にすると大げさに被害者ぶるので、なぜかこちらの評価が下がってしまう。理不尽なこと、この上ないのである。
「リュージのライブがあるんだけど、友だちにキャンセルされちゃってぇ」
やっぱり空いてるなんて、余計なことを言わなくてよかった。私はリュージとやらには興味がないし、ヒット曲があるのかすら知らない。CMに使われた曲があるとは聞いたが、テレビを見ない私ではサビの部分でさえうろ覚えだ。
そんな状態でライブ? 誰も気にしないだろうけど、なんか盛り下げてるみたいで気まずいし、時間とお金がもったいない。
「ごめんなさい。私、この週末は実家に帰るんです」
予定がないなんて言ってたら、絶対に断れなかっただろうな。さすがにイヤな顔はできないから、申し訳なさそうに眉を下げるけども。
「えー! ライブの日は決まってるんだから、来週帰ったらいいんじゃないの? 話を聞いたんだから、そっちの予定を変えてよ」
断ったのが不服なのか、壱那さんは自分勝手な理由で私の予定を変えさせようとする。こんな非常識なところも苦手なんだよな。
「すみません。なにぶんお急ぎのご様子でしたので、仕事関係かと思ったんです。それにこちらは法事なので、変更は出来かねます」
ライブの日程が変えられないように、祖父の三回忌だって半年前から決まっているのだ。本当は日曜の始発で帰って、日帰りで済ませる予定だったけど、これは前日から帰った方が良さそうだ。
アパートにいるのがバレたら、ライブ後に実家に帰ればいいとか言ってきそうだし。
「なんで今週なのよ。じゃあ、チケット代の一万二千円は誰から貰えばいいの? 全然使えない」
壱那さんは私だけに聞こえるように捨て台詞を吐いて、自分の部署に戻っていく。だが、そんなの私の知ったことではない。無関係な私が、こんな仕打ちを受ける謂れはないことだけは確かだよね。
払い戻しができなかったから、私を誘って補填しようと思ったんだろうなぁ。ふつうならキャセルしたその友だちが払うべきだと思うけど、壱那さんのことだから、友だちから気前がいいと思われたくて、赤の他人に押し売りするつもりだったんじゃないかな。
「いや、友だちだもんな。壱那さんと同じタイプでキャンセル料とか払わないひとなのかも」
だいたい、なんで興味もないライブに一万以上払うと思ったわけ? なんかやけに高いし、壱那さんなら二人分のチケット代を請求していてもおかしくはない。
そもそも人を誘うなら、アーティストに興味があるか聞いた上で、急だけど明日の夜のライブに行かないか? チケット代は一万二千円なんだけどって、情報を先に出すべきでしょう?
だまし討ちみたいにスケジュールの空きだけ聞くなんて、断らせない気満々じゃないか。
ブツブツ文句を言いながら去っていく背中を見送りつつ、そっとため息をついた。きっと隣の部署では、私がドタキャンしたことになるんだろう。そう勘違いするように話すことなんて、壱那さんにとっては朝メシ前だからね。こちらが壱那さんから言われたことを訴えても、そんな話はしていない、悪意をもってねじ曲げられたと、反対に責められる可能性が高いのだ。
四月に異動してきた隣の課長は知らないだろうけど、ムダに正義感がある女性が、壱那さん絡みで途中退職したという前科があるし。
その女性は壱那さんの言葉を真に受けて、きちんと確認もせずに、よりにもよって被害者女性に詰め寄った。元凶である壱那さんは勘違いした人が悪いのだと、自分は関係ないような態度をとっていたから、さすがにマズイと慌てていたのだと思う。
結局、壱那さんを助けようとした女性は、壱那さんから逆に責められ、職場にいづらくなって辞めてしまった。
表向きは自己都合による退職ってことになっているけど、この件に関して壱那さんが被害者っぽく囁かれているのは、まったくもって意味がわからない。
「高階さん、お疲れ。また壱那さんから絡まれてたんでしょう?」
壱那さんが自分の部署に戻ったので、同じ課の先輩が話しかけてきた。彼女も壱那さんのことが苦手だから、極力、接触しないようにしているらしい。
「ええ、壱那さんの友だちがキャンセルしたライブのチケット代を、私が肩代わりさせられるところでしたよ」
他人を財布代わりにするのは本当にやめて欲しいんですよねと、隣の課に背中を向けてウンザリした顔で報告する。
「いつもながら、ホント自己中な人だなぁ。同じ課でやったら課長にばれるし、同僚たちに警戒されるからこっちに来るんだよねぇ」
そうなのだ。壱那さんから被害を受けているのは、私ひとりではない。傾向としては、ちょっと大人しめの歳下女性を狙っているのがわかっているので、目を合わせないなどの自衛する人が増えている。だからか、最近では新人の男性にも被害が拡がっていたりするのだ。
「まったく、きょうみたいな時間のない昼休みに来るなんてね」
「終業してからだと、捕まらないかもって思われたんでしょうかね」
基本的に、週末には午後イチでミーティングがあるので、昼休みはいつもより駆け足状態なのだ。
それでも明日のライブに誘うには、昼休みに話すのが確実だと考えたんだろう。終業時に私を捕まえられなかったら、自腹を切るしかないからね。
帰宅後にアパートの自室に突撃されるよりはマシだったけど、午後には壱那さんの言い分を信じた人が現れそうで萎える。いや、壱那さんのことだから、まわりに人がいた方が断りにくいと思って、わざと話しかけてきたまであるわ。
「何回か断ってたら、そのうちターゲットを変えると思うよ。で? きょうのランチはどうするの?」
「あ、きょうはお弁当持ちなんですよ」
今朝は寝坊したので、昨日の晩ご飯の残りの唐揚げとポテトサラダを温め直すこともなく、弁当箱に詰めて持ってきた。ごはんには鮭フレークをテキトウにかけて、プチトマトと冷凍ブロッコリー、ミックスビーンズの缶詰を使っただけでも、まあまあバランスがとれたおかずに見えるはず。
「そっかぁ、じゃあ新しくできたとこは、来週一緒に行こうよ。わたし、コンビニに行ってくるね。ついでになんか買ってこようか?」
「ありがとうございます。では、ぷるるんグミっちょのグレープ味をお願いしてもいいですか?」
「いいよ〜」
「それでは、とりあえず先に五百円をお渡ししますね」
「あ、物と引き換えで大丈夫よ〜」
私が財布をバッグから取り出す前に、先輩はそう言ってアウターを羽織り、急ぎ足で近くのコンビニへと向かって玄関を出ていった。
「久しぶりにイラッとしたから、おやつでも食べなきゃやってらんないわ」
ダイエット中だからと、頂き物のお菓子はひとにあげていたけど、きょうは糖分を摂りたい気分になってしまった。いちおう、おやつは一個だけという自戒は守ったけれども。これ以上、壱那さんからペースを崩されては堪らない。
その点、先輩とは価値観がほぼ一致しているし、金銭感覚も似たようなものなので、お昼に誘われても安心だ。先ほど誘われたのも、二日前に通りの向かいにオープンした、リーズナブルなのにおいしいと評価が高いチェーン店である。
それに、先輩になら多少のお金を預けることにもためらいはない。キチンとレシートを提示して、お釣りを渡してくれるとわかっているからだ。
先輩も、私が支払わずに踏み倒すとは思っていないため、わりと気軽に立て替えてくれる。
「それに比べてあの人はなぁ」
いつだったか、壱那さんにうっかり空いていると応えてしまい、まったく興味のないアイドルグループのグッズ販売会場に連れて行かれたことがある。
抽選で買えるレアなグッズが欲しかったらしく、確率を増やすための人員として選ばれてしまったのだ。
壱那さんのタチの悪さは、誘うときに内容を言わないところと、相手が興味がないかどうかを気にしないところだから、そのときも着くまでどこに行くのか知らなかった。
すごく嫌だったけど、会場には壱那さんの知り合いが多くいて、ファンでもないし買い物もしないとは言えない雰囲気だった。結局、私は抽選券がもらえる三千円以上の買い物をさせられ、抽選券を一枚手に入れたのだ。
壱那さんは一枚しかないことに不満そうだったが、形だけありがとうと言って、私の手から抽選券を抜き取った。まだあげるとは言っていなかったのに、勝手なものである。
私が買わされたグッズの支払いについては、一言も口にしない。払うつもりがないからだと気づいた。
抽選券が欲しいのなら、自分がグッズをたくさん買って、それに対応した枚数をもらえばいい。購入制限がなかったから、私が買わないといけない理由はなかったのだ。
頭数がいなくて困っていると思うように仕向けられただけだったと、私は購入した後に知ったのである。
そのあと壱那さんは、当選番号がわかるまで友だちと推しについて盛りあがっていて、茉里は放っておかれた。それはそうだ。私はこのアイドルグループのことを欠片も知らないので、話しに入れるわけがない。
そもそも、当日まで集合時間しか知らされず、どこに行くのかすらわからなかった。だからアイドルグループの予備知識を仕入れることさえ、私にはできなかったのである。
「どこに行くのかも分からないから、靴や服装も決められなかったんだよね」
行き先を聞いても、任せて! 絶対楽しめるからって誤魔化されたんだった。とりあえず動きやすい服装にしたけど、フォーマルな場所に連れて行かれていたら、私ひとりだけ入れなかっただろうな。
あの人なら闇バイトとかにも平気で連れて行きそうだから、行き先を言わないならもう出かけないって決めたんだよね。
茉里は代金を支払われなかったステッカーやタオルを投げつけたい気持ちを抑え、体調が悪いからと言ってそれらが入った袋を渡し彼女たちと別れた。
壱那さんは抽選券が手に入れば茉里のことなどどうでもよくて、体調を気づかう言葉もなくあっさりと手を振った。
「あのときは交通費とグッズ購入で、五千円近くかかったんだよね」
いま思えば、ギリギリ三千円超えの組み合わせで買ったとは言え、グッズはあんな人には渡さずに、新品としてフリマサイトで売ればよかった。
しかし、これはまだ被害額が少なかった方だろう。
残業続きで、ようやく定時で帰れそうだった日に、会社の玄関でばったり会って夕食に誘われ、断りきれずファミレスに立ち寄ったこともある。
「あれって、絶対待ち伏せされてたよね」
茉里は疲れていたので、ミニサイズのグラタンにサラダで済ませようと思っていた。それなのに、壱那さんはすぐにスタッフを呼び、私の分まで注文してしまったのだ。壱那さんの推しがファミレスとのコラボメニューをを出していて、その日が初日だったらしい。
注文すると、メニューに応じてコースターやファイルがもらえた。壱那さんは、ウエイトレスから渡されたコースターなどのグッズを、すぐにバインダーに挟んで、いそいそとバッグにしまった。もちろん私の分もである。そんな物は欲しくもなかったが、一言断るのが社会人のマナーだと思う。
私の前には極彩色のドリンクと、ハンバーグのプレートに、色とりどりのフルーツが乗ったクレープが置かれた。
たしか私は『さすがにこんなには食べ切れないです。壱那さんが頼んだんだから、責任持って食べてくださいよ』と言ったはずだ。注文のときも、食べられないからと断ったのに、写真を撮りたいからとか、そんな理由で押し切られてしまった。
私は壱那さんの常識の無さに呆れていたし、無神経さに腹も立っていた。
『大丈夫。無理しなくってもいんだよ。食べきれないなら残せばいいじゃん。わたしのオススメなんだから遠慮しないでよ』そう返されたら奢りだと思うよね。でも違う。
あれはお腹にダメージを受けただけでなく、食べたくもない物に、七千円近く支払うという痛手を負わされた。コラボメニューは、値段が三割増しだったからだ。
そう。壱那さんは、当然のように私のメニューについてきたグッズを回収しておいて、勝手に注文した食事代を私に支払わせたのだ。会計時に一円単位で請求されたのには、本当にドン引きした。
食べた分は自分で払うのが当然でしょうと言われたらそれまでだが、あのときは強盗にあったような気持ちになったものだ。
「当初予算の四倍は支払ったのに、コラボメニューは見かけ倒しだったんだよね」
あれはファンのための料理だった。推しを応援するつもりで、投げ銭感覚で注文するのだろう。
しかも自分がまとめて払うからと、私から代金を受け取って、ポイントのためにカードで支払っていた。
「人にお金を出させるくせに、自分はすっごいケチだし」
いや、ケチだからこそ他人が支払ったものを、掠め取るような真似ができるのだろう。
そもそも壱那さんから付きまとわれるようになったのは、偶然アパート近くのコンビニで会ってからだと思う。コラボグッズが欲しいからと、対象商品を二点買わされたのが始まりだった。
それまでは、同じ会社の人だとは思っても、ろくに話したことはなかったはずだ。
「うん、やっぱり話したことはないな。アパートから出たところを追いかけてきたのかも」
あのときは菓子の棚の前まで誘導されて、この中から二個選んでと突然言われたんだった。
わけもわからず困っていると、適当に二個掴んでファイルはコレねと持たせられ、レジに連れて行かれた。なぜか私が支払いをしている間に、壱那さんはファイルを持って足早に去っていった。
対象のお菓子を二個買うと、好きなファイルを一枚貰えるらしく、私の手元には、苦手なナッツ入りのチョコレートが二箱残った。
私は意味がわからずあっけにとられ、反応が遅れてしまったために、壱那さんに押せば通ると思わせてしまったらしい。
「最初の被害額は、三百円くらいかな」
そんなことがあったため、現在、茉里は壱那を警戒対象として認識しているのである。
ヘンに怒らせて逆ギレされても怖い。相手は職場にいて、こちらの住まいも把握しているのだ。
さすがにアパートの部屋まで押しかけてきたことはないが、今後のつきあい方次第でどうなるかわからない。
「あのアパート、ちょっと古いけど会社に近いし、交通の便も良かったんだけどな。でもちょうど二年更新の時期で、タイミングが良かったよ」
茉里は四月からの賃貸契約を更新せず、早めに引っ越し先を探すことにした。相手は常識が通じない人だから、自己防衛は大事だ。
私はもう壱那さんとは一切かかわりあわないと固く決意し、お弁当を前にして除菌シートで手を拭きながら先輩の帰りを待った。
お読みいただき、ありがとうございました
恐ろしいことに、これって8割くらい実話なんですよ
皆さんのまわりにもこんな人っていますか? いるのならば被害にあわないよう、うまく対処できますように




