映画 『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない。』について
千束(軽快・鋭い・けど核心を突く)
「いやー、やっぱり『あの花』って、ズルい作品だよね〜。
めんまってさ、“死んでるのに可愛くて、しかも全員の罪の象徴”なんだよ。
あれはね、いわば“過去から来たスナイパー”みたいなもんよ。」
ひとり(陰キャ・自己否定・でも観察眼は鋭い)
「あの……その、えっと……
私、ぽっぽの気持ち、めっちゃわかります。
『見てただけ』って、たぶん一番キツいんです……。
何もできなかった自分が、今でも頭から離れない、っていう……
……ご、ごめんなさい、語ってすみません……(縮こまる)」
圭介(現実主義・責任感・でもどこか壊れてる)
「誰かが死ぬとさ、みんな“自分のせいかもしれない”って思う。
『あの花』の連中は、結局“死んだ子の罪”を全員が“共有して生きてる”んだよ。
俺も似たような経験がある。人が一人消えると、人生の座標軸がずれる。
そして……ずれたまま、大人になる。」
夏美(現実主義×共感力の高さ×姉御肌)
「つかさ、あの子たち、全員“自分を赦せてない”のよ。
あなるなんて、“好きって言えなかった自分”をずっと引きずってるし。
ゆきあつなんて、めんまになりきろうとするくらいこじれてるし……。
正直、見てらんないわよ。
でも、それがリアルなのよね。高校生の罪悪感って。」
テーマ深掘り①:めんまは「他者」ではなく「記憶の中の自己」
千束:
「めんまって、幽霊だけど、実はあれ、**自分の中にいる“過去の自分”**なんじゃないかな?
“何もできなかったあの日”を、誰もが背負ってる。
でも、その日をもう一度やり直すことはできない。
だからこそ、“見えるのはじんたんだけ”って設定が効いてくる。」
ひとり:
「あ……あの……。
じんたんも、ぽっぽも、きっと、“本当の自分”を見せたくなかっただけなんだと思います。
だって、“泣いてる自分”とか、“嫉妬してた自分”とか、カッコ悪いから……。」
圭介:
「そもそも、“誰かを傷つけたくなくて黙ってる”ってのは、優しさじゃない。
結局、“自分が傷つきたくないだけ”なんだよ。
それを全員、最後にぶちまける。めんまがいなくなる前に。」
夏美:
「そう。だからこそ、あの最終回は泣けるのよ。
“かくれんぼ”って子どもの遊びを、“感情の共有”の儀式に使った演出、秀逸よね。
“みーつけた!”って言う側が、“赦された”って感じるようになってる。」
テーマ深掘り②:「見える/見えない」は、罪と向き合えるかの境界線
千束:
「私さ、あのラストシーンの“手紙の文字が現れる”とこ、あれ完全にスナイプされた気分だった。
“お前たち、ようやく人間らしくなったな”って。
罪は消えないけど、共有した時点で救いになる。」
ひとり:
「うう……でも、共有するの、怖いです。
私もライブで間違えるのとか怖くて、全然言えなくて。
でも……たしかに、誰かと“間違えたこと”を一緒に笑えたら、ちょっと楽になるかも……」
圭介:
「結局、“お前が悪い”って責められるより、“自分が悪かった”って思ってる方がキツいんだよな。
『あの花』は、それを全員にやらせる。
だから視聴者も、自分の過去を掘り起こされる気分になる。」
夏美:
「観客が“思い出す”のよね、自分の中の“めんま”。
忘れたはずの友達のこと、言えなかった一言、逃げた瞬間。
そりゃあ、泣くわよ。」
まとめ|観客はなぜ『あの花』に惹き込まれるのか?
観客の心理作品の演出
自分の中にいる“罪”と向き合いたくない→ 幽霊という存在で“目に見える形”にされる
本当は誰かと「泣きたい」「許されたい」→ “みーつけた”という言葉で“赦し”が発動する
現在の自分が、過去の失敗に縛られている→ 仲間全員が“失敗”を受け入れることで成長する
千束:
「いやー、マジで“感情を狙い撃つ”脚本だったわ。
泣きすぎて、目が赤くなったもん。リコリスじゃなくて“泣きリス”って感じ。」
ひとり:
「(うなずきながら)……私も、自分の“めんま”と、少し話せた気がします……。」
圭介:
「過去は消えない。でも、向き合えば変えられる。
それを“泣きながらでもいいからやれ”って言ってる、そんな作品だったな。」
夏美:
「あの花は、“心の喪失を埋める物語”じゃなくて、“喪失ごと抱きしめる物語”なのよ。
それが分かったとき、人はようやく前に進める。」