映画『インビジブル・ゲスト』について②
シーン:星空の下、焚き火を囲んで――旅の途中、映画の話になる
テーマ:なぜ『インビジブル・ゲスト』は私たちをこれほど惹きつけるのか?
【1】語りの罠と、欺かれる快感
シュタルク(ちょっと興奮気味)
「なあ、俺さ……途中まで“エイドリアン、可哀想じゃん”って思ってたんだよ。
でも最後、全部嘘だったって分かってさ……逆に、“騙された!”ってスカッとしたというか……うん。気持ちよかったんだよな。」
フェルン(冷静に)
「それは“知的快楽”ですね。観客が“自分は真実を見抜ける”と思っていたところを、
見事に裏切ってくる構成。それが快感とショックを同時に与える。」
フリーレン(やや遠くを見る)
「そう。つまり、観客は“騙されるために観ている”とも言える。
でもこの作品は、その“騙されることの快感”を利用して、
**“自分が信じたことの責任”**まで観客に返してくるから……ただの娯楽じゃ終わらない。」
【2】「あなたならどうする?」という倫理の罠
フェルン
「惹き込まれる本当の理由は、“もし自分がアドリアンだったら?”という問いを突きつけられるからです。
事故。隠蔽。不倫。嘘。…身近じゃなくても、“あり得る”範囲の出来事ばかり。」
フリーレン
「人は、あり得ないことには恐怖しない。
だけど、“自分もそうしてしまったかもしれない”という感覚は、心に染み込む。
この映画は、“観客を加害者にする魔法”なんだよ。」
シュタルク
「うわ……それ、ズルいな。
なんかさ、俺も『しょうがなかったんじゃね?』って思っちゃってたし……
でも最後、あれ全部“言い訳の構造”だったって思うと……なんか、ズドンとくる。」
【3】閉じられた空間と時間の制約=舞台劇的没入
フリーレン
「あと、この映画の仕掛けは“時間と空間を閉じてる”ところもポイント。
舞台は基本的に、“密室”と“数時間”。外の世界はほとんど描かれない。
つまり、“物語に閉じ込められる感覚”が強くなる。」
フェルン
「情報も制限され、目の前の証言と回想だけで判断を迫られる。
これってまさに、“陪審員にされた観客”の構造です。」
シュタルク
「閉じ込められてるの、こっちだったのかよ……」
【4】罪を“理解”したがる本能と、ゆがめられる同情
フェルン
「私たちは、“悪”を単純に裁くより、“なぜそうなったか”を理解したくなる。
それがこの映画では、“不倫”“焦り”“キャリア”などの“人間的な弱さ”として提示される。
つまり、アドリアンに共感しかける。」
フリーレン
「そう。“理解”は、“免罪”に変わりやすい。
そして観客はそれを、自分自身の日常に重ねてしまう。
“私も似たような場面で、同じように逃げたかもしれない”と。」
シュタルク
「うぐ……なんか、普通の人っぽいからこそ怖いんだよな……
もっとヤベー悪人だったら、“こんな奴いねぇ!”って思えるのに……」
【5】最後の「沈黙」が観客の内側をえぐる
フェルン(やや声を落として)
「最終盤で、母親は一言も怒らない。叫ばない。
ただ、“扉を閉める”だけ。そこに言葉がないぶん、私たち観客が“内面で想像”してしまう。」
フリーレン
「“沈黙”は観客の中に残響をつくる。
だから、この映画は観終わった後も“終わらない”んだ。
記憶に残るのは、言葉ではなく、“良心の重さ”だから。」
シュタルク
「……ごめん、俺たちがダニエルだったら……って、ちょっと考えちゃったよ。
それって、こえーな……」