映画『ジョーカー』について②
映画『ジョーカー』を“野田ともうします。”のメンバーで語ってみた
亀田さん(人生経験に裏打ちされた包容力)
亀田:「あの人…アーサーだっけ?悲しかったわねぇ…。
わたし、笑ってるけど泣いてる人って、一番つらいと思うの。
テレビで笑われるシーン、あれ、自分が若い時にパート先で怒鳴られたの思い出しちゃった…。
なんていうのかしら…“優しさ”が世界から無くなったら、人って壊れちゃうのよ」
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野田さん(社会構造に敏感な内向型知識人)
野田:「『ジョーカー』は、現代社会における“システム的無関心”と“自己の崩壊”を描いた寓話だと考えます。
笑い=狂気とされる中で、アーサーの“社会から見放された存在”としての苦悩は、現代の排除構造そのものです。
彼の“道化”としての誕生は、もはや悲劇ではなく、むしろ“個の再構築”とも言えるのではないでしょうか」
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富沢さん(感情と共感で読む女子)
富沢:「あの映画、すごい胸が苦しくなった…。
最初は“かわいそう”って思ってたけど、だんだん“怖い”になって…。
なんか、誰にでも“ああなる可能性”あるかもって思ったのが一番怖かった。
“理解されないこと”って、そんなに人を狂わせるんだね…」
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部長(自己表現と芸術の視点)
部長:「私は“舞台に立った瞬間のアーサー”に、すごく惹かれた。
それまで社会に翻弄されてきた彼が、“ジョーカー”として立つその瞬間、表現者の顔だったと思う。
もちろん、肯定してはいけない行為だけど…。
“演じることで本当の自分になる”って、芸術家としては無視できないテーマだった」
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副部長(感情と倫理のバランサー)
副部長:「観てる間ずっと“どこで止められたんだろう”って思ってました。
誰か一人でも、アーサーにまともに向き合ってたら、彼は違う道を選べたのかもって…。
でも現実でも、“声をかける勇気”って、案外難しいんですよね。
あれは“社会全体の失敗”を描いた映画だと思います」
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最後に野田さん、まとめる
野田:「アーサーが“ジョーカー”になるまでの過程は、単なる狂人の誕生ではなく、
“誰にも承認されない社会的個人が、過激な自己定義に至る過程”です。
わたくし的には、“承認”という概念がここまで悲劇的に反転する事例は、社会学的にも貴重だと思います」
富沢:「…野田さん、ちょっと怖いとこ行ってるよ…」