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転属 1

 

 彼がその報せを受けたのは、午後のこと。


「……は……? ……な……なんですっ、て…………?」


 そう言ったきり、思わず絶句してしまったウルツの前にはイアンガード。

 自身の執務机に腰かけ、苦悩するようにそれを報せた母は、どこか心配そうに息子の反応をうかがっている。


「……うむ。どうにもロアナの意思が固くてな……こなたでは説得できなんだ」


 母の苦い言葉に、ウルツはたった今告げられた母の言葉を呆然と反芻する。


 ──ロアナが、ロスウェルの求めに応じ、彼の側仕えに転属した。


 これには、ウルツは言葉もない。

 それを告げたイアンガード自身も、いまだこの事態に納得いかぬという表情。歪められた母の眉間を見たウルツは、確かにかの娘が母のもとを去ったのだと突きつけられる。


「……な、ぜ…………」


 かすれるようにそれだけが出た。

 ……いや、広い王城で、侍女たちの転属はたびたびある話。

 しかし、こたびはあまりに突然。しかも、行き先がロスウェルのそばときてはウルツも動揺を隠せない。

 ふいに痛みを感じてウルツは自分の手を見下ろした。

 いつのまにか、自分の拳が固く握りしめられていることに気がつく。朝餉の折、グラスを砕いて出来た傷が痛んだが……それでも彼は拳をほどかなかった。

 ほどいてしまったが最後、足が彼女のところへ駆けて行ってしまいそうだった。

 その衝動をこらえて、経緯を説明する母の声になんとか耳を傾けるが、胸の中にはどんどん不安がふくらんでいく。


 彼が見守ってきた限り、彼女と、かの四弟とは、接点は皆無。

 ロアナとの無記名の手紙のやりとりでも、彼女がロスウェルの話題を出したことは一度だってない。

 おそらく二の宮にひきこもって働いていた彼女は、ロスウェルのことなど、ほとんど知らなかったはずだ。


 ただ、こうなってしまった理由が、ウルツにも一つだけ分かった。

 母がその経緯を語り終えると、彼は苦虫を噛み潰したような顔で苦悩の息。


「……明らかに、私に対するロスウェルの当てつけですね……」


 あの弟が、知り合ったばかりのロアナを急に召した理由など、それしか思い当たらない。

 きっと昨夜のできごとが、弟の興味をロアナに引き寄せた。


「……うかつでした」


 昨晩のことで、頭がいっぱいだったウルツは後悔に襲われる。情けなくて、思わず拳が震えた。


 あの弟がロアナに手を出してくる可能性を、考えておくべきだった。

 しかし普段から怠惰なロスウェルが、こうも素早い動きを見せるとは思わなかった。

 ウルツはあの四弟を、政務も手抜きばかりで、遊んでばかりの男だと思っていたが……。

 昨晩の一件で、さっそく彼女に目をつけて動いたというのなら、彼は弟の行動力と執念とを見誤っていた。

 憤りをこめてつぶやいた息子に、母も同じように息を吐く。


「第四王子はよくわかっておる。こなたが王妃の頼みを拒絶せぬとみて、王妃伝手に手を回してきおった。あやつもなかなか賢い。それを政務で生かしてくれればお姉さまの気苦労も減るものを……」


 その口調には、同じく息子を持つ母としての同情が滲んでいた。

 ロスウェルの母は王妃である。

 その王妃を慕い、補佐するイアンガードは、側妃という立場もあってなかなかその頼みを断れない。

 王妃は常々ロスウェルの放蕩に困っていて、おそらく、息子のこの頼みを聞き入れる代わりに母子は何かを取引したに違いない。

『これからは真面目に政務にはげむ』とか『もう酒や夜遊びを控える』とか……。

 その取引が、国母としてつねに大きな重責を抱えている王妃の重荷を、少しでも和らげるものであるのは確かで。イアンガードとしてはそれを無下にはできなかった。

 おまけに当のロアナまでもが、それを望んでいるとなると……。


「……こざかしい小坊主よ……」


 イアンガードは、ロスウェルに対する苛立ちを吐き捨て。ウルツは押し黙ってそれを聞く。


 説明されずとも、ウルツにも、王妃と母のだいたいのやりとりには予想がついた。そこにある王妃の困窮も、その王妃を思いやる母がしぶしぶその願いを聞き入れたことも。


 しかし、それでもやはり、自分たちの確執にロアナを巻き込んでしまったことが口惜しい。

 自分の脇の甘さが悔やまれる。


(……ロスウェルの側仕えなど……ロアナにとっていい環境とは思えない……)


 なんとかしなければと考えるのだが……ただ、分からないのは、ロアナがロスウェルの申し出を受け入れたこと。


(何か、理由が……あるはずだ……)


 それを考え始めると、昨晩のふたりの様子が頭に浮かぶ。

 ロアナの肩を、気やすく抱いていた弟。

 二人の並んだ光景を思い出すと、落ち着けと命じたはずの心がまた騒めく。


(まさか……あの時すでに口説き落とされていた……?)


 そんな馬鹿なとは思うが、あの女好きの弟ならやりかねないと思った。

 ロスウェルは、政務や学問などには無関心だが、異性を口説く技についてはウルツの及ばないものを持つ。その方面にめっぽう知識のないウルツにとっては、それをロアナがどう受け止めるかもまた未知。

 年中女性を侍らせている弟。

 もし、ロアナがその女人らと同じ瞳で、弟を見つめたらと想像すると──……。

 娘たちがロスウェルを見る、熱を帯びた瞳を思い出すと──……。


「……ぐ……」


 とたん、青年の胃を襲う激しい痛み。

 ウルツの冷静さが大きく揺るがされていた。 

 あの弟の調子のいい言葉に、ロアナが心を奪われるさまなど、想像したくもなかった。


「……、……、……大丈夫かウルツよ……」


 青い顔をして。大槌で打ち付けられた岩のごとく、身をわななかせた息子に母が気の毒そうな顔。


「……心配せずとも、ロアナはロスウェルの軽口に惑わされるような娘ではないぞ……」

「っわ……分かっております……」


 そうは絞り出すような声で返したものの、ウルツの不安に駆られた思考は一気に走り始める。

 心配過ぎて、彼はまったく混乱していた。


(痴情のからんだ女たちは恐ろしいと聞くぞ⁉ もしロスウェルの周りがそんな者たちばかりなら……ロアナは修羅場に放り込まれることになるのでは!?)

(いや……待て……しかも一の宮暮らしのロスウェルは、自分の宮をもたぬ。ということは……ロアナは休日に自由に厨房を使えない……⁉)


 この気づきに、ウルツはさらに動揺した。

 あの控えめなロアナが、転属してすぐに、格式高い一の宮の厨房にのりこんでいけるとは思えなかった。


 イアンガードの治める二の宮は、厳格に管理されているが、彼女にそれが一任されているだけに、独立していて、決まりさえきちんと守っていれば過ごしやすい宮。

 規則を守らぬ者には厳しいが、ロアナのようにきちんと仕事をし、真面目に規則を守る者には鷹揚なのである。


 しかし、国王や王妃、王子たちの暮らす一の宮は違う。

 巨大な一の宮の内部事情は、実に複雑だ。

 王族を主として仕える者たちは、それぞれの主を守るために団結し、つねにけん制し合っている。さらに言えば、その内部とて主の寵愛を競って火花が散る。


 ロスウェルのような女性問題が激しい王子のもとでなくとも、当然その関係はギスギスしやすく、新参者には厳しい。

 ロアナは一の宮には、ほぼ知り合いもいないはずで……。

 そうなると、菓子作りが趣味の彼女が、気楽にそれができるようになるほど一の宮に馴染めるのは、いったいいつになることか……。


(な……なんということだ…………)


 ウルツは愕然とした。

 己を癒す趣味まで奪われた時、ロアナが厳しい職場環境の一の宮で本当にやっていけるのか。

 しかも、主はあのへらへらと享楽にふけるばかりのロスウェル。弟がロアナを助けてやるとは到底思えないし、あの弟を支えるなど若い彼女にとってどれだけの負担になるか分からない。

 弟のために、ほうぼうに頭を下げるロアナの未来を想像し、ウルツは……。


 ふいに、ガツンと痛そうな音がイアンガードの執務室に響く。


「…………」

「……、……、……大丈夫か」


 母は、なんとも言い難い表情で息子に問う。

 その視線の先で。母の執務机の前に立っていたはずのウルツは、顔色を失った暗黒顔で、床に片膝を突いていた。

 ……どうやら胃が痛すぎて立っていられなかったらしい。



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