王家の食卓の珍事 2 第五王子の確信
ウルツが動揺を隠せなかったのと同じく。この朝は、フォンジーにとってもまた、悩み深い朝だった。
昨夜の一件。
ロアナはなぜ、あんな時間に、わざわざ一の宮にやってきてまで、彼の兄にクッキーを渡そうとしたのか。
昼間の手伝いの礼だとしても、彼女はそれを侍女頭にでも言づけて、兄の補佐官あたりに渡せばいい。
王子である兄と彼女の距離感や立場を考えれば、むしろそちらが正規のルート。
それなのに、彼女は侍女頭に伴われてあの場にいたようで……。
この点もまた、フォンジーにモヤモヤとした疑問を募らせた。
イアンガードの腹心たる二の宮の侍女頭がロアナを手引きしたのなら、それは当然側妃の許可があったということ。
フォンジーは、同じ朝食の席についている側妃をそれとなく見た。
王妃の隣に座り、にこやかに歓談しているウルツの母。
その凛々しい姿は普段通り。しかし、王妃を支えるため、王城内の些事にまで耳ざとくある彼女が、昨晩の息子の一件を知らないはずはないとフォンジーはいぶかしむ。
それなのに、楽しげな表情には、息子を案じているような陰りは見られず。むしろ上機嫌。これにはフォンジーは戸惑った。
(これじゃまるで……イアンガード様が、ウルツ兄上とロアナを積極的に交流させようとしているみたいだ……)
そんなことってあるんだろうか、と、フォンジーは途方に暮れる。
彼の母リオニーは、彼と女性たちの接触を過度に警戒する。
彼の周りの侍女たちは、皆ある程度の年齢の、古参の者たちばかりで固められていて。若い、特に、爵位もない家出身の侍女が彼に近寄ろうものならば、母の反応は先日の通り。
その者は、鞭打たれたロアナ同様、厳しく罰せられてしまう。
そんなリオニーに永く養育されているフォンジーには、同じく王子を養育するイアンガードの行動が、まったく理解できない。
ただ、自分の考えこそが至高と凝り固まったリオニー妃とは違い、フォンジーは、理解できずとも、他者には他者の考えがあるということを知っている。
しかし、だからこそ彼は動揺した。
(……まさか……イアンガード妃は……ロアナを、兄上の妃にしようとしている……?)
ふとそんな考えが浮かぶと、まるで頭から冷たい水を浴びせられたように、一気に身が冷えた。
驚きすぎて、うまく考えがまとまらない。
それは、彼が考えもしなかったことである。
まさかと思う一方で、そうだったらどうしようと胸が騒めき。不安そうなフォンジーの目は、ちょうど向かい側の席に着席した兄に吸い寄せられる。
そこで黙々と朝食を食べている兄。
姿勢よくイスに腰かけ、淡々、粛々と。相変わらず、味を感じているのかも怪しい顔で朝食を口に運んでいる。その顔には人間味というものが少しも感じられず、まるで石像が食事をしているかのようだった。
フォンジーは、そんな兄を見て、あることを思い出した。
この、常に何を考えているか分からない兄は、婚約者の選定がひどく難航しているらしい。
その話題については、彼の母リオニーがよくあげつらっていた。
『あんな不愛想な王子なら無理もない』とか、『おかげでフォンジーの婚約者の選定が本格的には始められなくて迷惑だ』と。
しかし母は明らかに、政務で優秀なイアンガードやウルツの突きどころとして、その話題が大好きで。ウルツがまた見合いで相手の令嬢を泣かせた、なかなか婚約がまとまらず国王を困らせているなんて噂を聞くと、そのたび母は上機嫌。
フォンジーとしては、そんなことを嘲笑う母が好きではなかったが、兄の婚約話が進まなければ、年下の自分の婚約がそれだけ遅れるということ。
母は、早く彼が強い後ろ盾を得ることを画策しているようだが、ロアナを想うフォンジーとしては、密かに有難いと思っていた、の、だが……。
しかし、もし、ウルツがあまりにも女性に興味を示さないことに、しびれを切らした側妃が、手あたり次第に相性のよさそうな娘を探し、ロアナに目をつけていたとしたら……。
(そ……そんな……)
その可能性に、フォンジーは大きくうろたえた。そうと決まったわけでもないのに、いてもたってもいられない。
彼はただでさえ、彼女を傷つけた母を持つ。
それなのに、かの兄が、彼女と仲を深めることを、母親に後押しされているのだとしたら。
フォンジーからすると、こんな不利なことはない。
こうなってくると、彼は兄の気持ちが気になって仕方ない。
(そもそも……ウルツ兄上はロアナをどう思っているの?)
素直なフォンジーは、ダメだとは思いつつ、ウルツを責めるような目で見てしまう。
兄がそのほかの令嬢と同じく彼女に興味を持っていなければ問題はない。
しかし、気にかかるのは、やはり昨日の出来事。
突然ロアナを手伝うと言い出した兄。
それに昨晩の出来事もある。
フォンジーは、昨晩の一の宮の廊下での顛末を、すでに居合わせた衛兵らから聞いている。
……ロアナがウルツの部屋の前にいたこと。
そこに、現れたロスウェルが、酔って彼女に絡んだこと。
強引な兄に連れていかれそうになって困っていたロアナを、ウルツが助けたこと。
そしてそのあとに起こった、珍事。
ただ、この件については、衛兵たちは、そこで交わされた会話の具体的な内容は教えてくれなかった。
起こった事象は報告できるが、それが王子たちの会話となると、たとえ相手も同じ王族であったとしても、それを誰かにもらすことは守秘義務に抵触すると考えたようだった。
ロスウェルの女性連れこみ案件もそうだが、基本的に彼ら衛兵は王族たちの私事には口を挟もうとしない。
ゆえに、彼らは第三王子があの侍女を憎からず想っているらしい……とはなんとなく察してはいても、それを口にはしなかった。
衛兵の言葉はこうだ。
『第三王子殿下を訊ねてきたらしい侍女に、第四王子殿下が目を止められ、酒席に連れていこうとしましたが、第三王子殿下がそれをお止めになり、第四王子殿下と言い争いに。……いえ……第四王子殿下は、割合楽しげでいらっしゃいましたが……まあ……その……いつもどおり兄君がからかわれておいでで……結果、侍女に気遣われ、なぜか第三王子殿下はご不調をきたし、魔法で事態を収拾なさろうとした結果……? あのような事態になった……ような、気がいたします』
このあいまいな説明に、フォンジーは怪訝。事の順序が変だと思った。
『……え? 不調になったから、気遣われた、の、ではなく……?』
『え、えと……気遣われたゆえに、不調をきたした、で、間違いがないと思います……』
フォンジーの問いに、衛兵は何やら言葉を濁す。
この点は、ある意味致し方ない。
衛兵らとしても、ウルツがどうしてあのような行動にでたのかはよく分からなかったのだ。
ただ、こんな説明では、フォンジーが戸惑うのもまた無理もなかった。
(……やっぱり、ウルツ兄上が明らかに変だ……)
フォンジーは、真向いに座った当の兄をじっと見つめる。
しかしそこで静かに朝食を摂っている兄は、やはり普段通りに見えた。
淡々と、一定のリズムで口に運ばれ、消えていく料理。その表情からは、なんら感情らしきものは読み取れない。フォンジーは複雑な気分だ。
その顔が、恋情に染まっているなんてことがないのにはホッとする。だが、自分がこれだけうろたえている時に、毅然とし続ける兄がとても憎らしいような、動じないさまが羨ましいような……。
「………………」
フォンジーは、なんだか手にしていたスプーンがとても重く感じられて。銀に光るそれを、ゆっくりと皿の端におく。
握りしめていても、食欲は少しも沸かなかった。出てくるのはため息ばかり。
こうなったら、とフォンジー。
(こうなったら……ロアナのこと、ウルツ兄上に直接話を聞くしか……)
兄が、いつも通りの冷たい表情で『彼女のことはなんとも思っていない』と言ってくれさえすれば、彼も安心できる。
むしろ、これまで女性を遠ざけてきた兄ならば、その可能性が限りなく高い。
だって、これまで彼がロアナを見つめてきていた限りでは、彼女と彼の兄には接点などほぼなかったのだから。
(……イアンガード妃のことも僕の思い過ごしかも……、……うん、やっぱり兄上にはっきり聞いてみよう!)
……そう、フォンジーが己の不安をなだめながら決心を固めたとき、の、ことだった。
ついつい凝視してしまっていた兄が、このとき不意に、彼を見た。
目の前にすえてある皿だけを見ていた目が、すっと上に動き、そこで彼に注視していた弟の視線とかち合う。
無感情な瞳と唐突に目が合って。フォンジーは、ついドキリとする。
自分がとても恨みがましい顔で兄を見ていた気がして。それを、悟られただろうかと、とてもハラハラして、思わず生唾を呑み込んだ。
でも、なんだかこの焦りを兄にはさとられたくなくて。慌てて取り繕おうとした青年は、自分を見ている兄に、とっさに笑顔を作った。
──と……その瞬間。
実に思いがけないことが起こった。
食堂の高い天井に小さく響いた軽く弾けるような音。
フォンジーは、えっ、と、息を呑み、目を瞠る。
真顔で自分を見ていた兄が、唐突に、持っていたグラスを素手で握りつぶしていた。
透明なグラスはあっけなく砕け、キラキラと輝く破片と、そこに満たされていた液体がテーブルの上に降り注ぐ。
兄の動かない拳の内側からは、赤い雫がぽたぽたと落ちていて。誰もがその光景を唖然と見つめ、食堂内は一瞬時が止まってしまったかのように静まり返っていた。
けれども兄は──驚く彼から目を逸らさない。
……その瞬間、フォンジーは、不思議な感覚にとらわれる。
兄の表情は少しも動いていない。
見ようによっては、グラスを握りつぶしておきながら、微動だにしない兄は、非常に不気味。
掲げた腕はそのまま動かなくなり、視線は縫い留められたようにフォンジーを見ている。
けれどもフォンジーは、その兄の瞳の奥に強い感情の動きが見えた気がした。
兄のこわばった顔は、フォンジーを通して何かを思い出しているかのよう。
その表情に、フォンジーは、何故かこのときふっとわずかな共感を覚え、反面、強い敵意を覚えた。今すぐ“彼女”のことを考えるのはやめてくれと、兄に詰め寄りたいような衝動に、驚いた。
(……え……まさか…………)
青年は、絶句する。
兄の目に浮かんだものは、彼が抱えるものとあまりにもよく似ている。
だからこそ、彼は確信に至る。
……兄は──ロアナを想っている。




