嫉妬と過去 2
突然背後から聞こえたしみじみとした同意。癖っぽいことを語る誰かの言葉に、そこに人がいたとは思わなかったロアナは驚いて跳び上がる。
ギョッとした顔のまま振り返ると……そこには思いもかけない人物が。
「でも意外だなぁ。君、あんがい言うじゃない。見かけによらず勝気なの?」
感心したように自分を眺めている青年を、ロアナは目をまるくして見つめた。
「うっ⁉ ロ……ロスウェル殿下……⁉」
「やあ、昨日ぶりだねロアナちゃん。そのあからさまな顔いいなぁ、かわいいね」
ロスウェルは、自分を見たとたん、思い切り顔をこわばらせてのけ反った娘を笑っている。
その軽快な笑い声に唖然としていたロアナは、ハッとして、あわてて手を引っこめた。
ロスウェルが、彼女の手を握ろうとしていた。相変わらず、油断も隙もない御仁である。
「おや、残念」
「で、殿下……? なぜこんな場所に……? こんな二の宮の……」
この辺りは二の宮の屋外の裏手にあたり、王族がわざわざ足を運ぶような場所でも、散歩に出てくるような場所でもない。行き来するのは、ロアナのような二の宮の手入れをする者か、この先にある使用人用の通用口を使う者くらい。
と、ロスウェルは笑顔でロアナの側へ。
驚いて距離を取るが、ロスウェルはなぜか笑顔で追ってくる。躊躇のないパーソナルスペースへの食いこみに、ロアナは困惑。
「もちろん! 君に会いに来たよ!」
「う……」
謎にポーズまでつけて、輝かんばかりの表情で宣言されたロアナは、意味が分からず及び腰。
昨夜のもろもろもあって、ロアナの彼への印象はあまりよくない。
ロアナは酒癖が最悪な兄のこともあって、酔っ払いが苦手である。もしかして、また酔っているのではと思うと、つい警戒が顔に出た。
何しろこの方は、厳格な一の宮に女性を連れこんでいると堂々のたまった御仁。しかも、侍女の変装までさせて……。
(ぇ……な、なんで……?)
当惑う彼女に、ロスウェルはにっこり。
「あ、もちろん先にイアンガード妃には話を通してあるから安心して?」
……そう言われても、このニヤニヤ笑いを前にしては、ぜんぜん安心などできないわけだが。
ただ、一応宮の主に許可を取る冷静さはある訳だ。イアンガードの名前が出たことで、ほんの少しだけ安心したロアナは彼に再度問う。
「え、ええと……それで……殿下は、わたしに何かご用命でも……?」
雑巾を握りしめたまま恐る恐る訊ねると、ロスウェルはことさらいい笑顔。
「ううん。興味があるだけ!」
「興味……」
なんだか嫌な予感しかしない言葉である。
まさか彼が、自分に女性的魅力を感じて興味を持った──などと思い上がったりはしないが。
王子ともあろうものが、わざわざちょっとの興味で、こんなところまで侍女に会いに来るだろうか。
そこは権力者らしく、『連れて参れ』と、配下に命じればいいだけの話。
(……もしかして……わたしがどんな人間か、どんな働きぶりなのか、ご覧になられていた……?)
ふとそんな考えが浮かんで、ロアナは不安になる。
もしそうであれば、わからないでもない。
昨晩のようすから、彼が第三王子ウルツと、やや対立関係にあるのは明らか。
そこへきて、あんな時間にロアナが第三王子に会いにいったことで、この青年は、ウルツと自分との間に何かあると邪推したのかもしれない。
(こ……これは……へたをすると、またウルツ殿下に迷惑がかかってしまう案件なのでは……)
そのことを察したロアナは、静かに絶望した。
昨日の、王子たちを巻き込んだ、たびかさなるドタバタは、彼女の中では失態としてしっかり心身に刻みこまれている。
二の宮で働くロアナにとって、王子たちは近いようで遠い遠い存在だ。気分としては、雲上人。見える場所にはいるが、手の届かない高貴な人々。
(……それなのに、昨晩はウルツ殿下にセクハラしちゃったけど………………)
例の、転倒時まさぐり事件を思い出したロアナはげっそり。あの瞬間のことを思い出すと、今でも顔から火が出そうだし、自分に失望もする。
なぜ……あそこで自分は王子の身体をまさぐったりしたのだろう……。視界がふさがれていたとはいえ、状況をすぐに理解すれば、あれは防げたはずの事態だった。
昨晩様子がおかしかったウルツだって、もしかしたら、彼女から受けたセクハラまがいの行動が受け止めきれずのことだったかもしれないではないか。
(っこのうえ、これ以上のご迷惑をウルツ殿下におかけするわけには……!)
ロアナは改めて、やってきた第四王子ロスウェルを見つめて、うっすら涙目。
ここでまた、王族相手に何かやらかしてしまったら、セクハラの件でお裁きを受ける前に、また失態を重ねてしまうことに。そう考えると、ちょっとクラッときてしまう。
(……、……、……すっごい動揺してる……)
と、そんなロアナの無言の百面相を、しばし黙って観察していたロスウェルは。内心愉快に思いつつ、ここへきた本題を切り出す。もちろん彼は、彼女をただからかいにここまで来たわけではない。
「──君さ、ヘルダーリン家から来たんだってね」
軽く放られたその言葉に。ロスウェルの前でゲッソリしていたロアナが、はじかれたように彼を見た。見開かれた瞳は、ここまでとは違う動揺に揺れていた。
ヘルダーリン家、と、つぶやこうとして、それがロアナの喉でつかえる。
一気に肝が冷え、と、同時に、どこかでこれだったか、とも思った……。
ロアナの脳裏に思い出されたのは、ある一人の女性。
先ほどの侍女と同じ、長い栗色の髪が美しい女だった。
お菓子が好きで、いつもロアナの作った菓子をほめてくれた。
『あなたは本当の妹みたいよ』
そういって優しくしてくれて。ロアナは、主たる彼女のことがとても大好きだった。
……でも。
今ではその美しい顔を思い出すと、同時に、別のことも思い出してしまう。
自分の前に立った大きな体。ニヤニヤ笑う口の端。──と、ふいにあの時かいだ生臭い匂いが顔にかかったような気がして、ロアナは思わず、あわてて払いのけるように顔の前で手を振る。と、耳にあの女の声が蘇った。
──裏切り者!
「!」
胸を突き刺すようなその罵倒を浴びた日のことを思い出すと、ロアナは目の前が真っ暗になった。




