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衛兵の目撃談 14


「……ど……どうしたら……、……」


 それは、非常に難しい局面だった。

 背後で大笑いしている酔っ払い王子は放っておくとして……。

 目の前で床に倒れたウルツのことは、なんとか救助しなければならなかった。


 なぜならば、この貴公子はとても生真面目。

 今日という日に多少なりと、彼の人柄に触れたロアナには、少なくとも彼が、理由もなく床に寝転ぶような人物ではないと思った。

 ゆえに非常に心配だ。

 この奇行も、きっと何か、彼なりによほどの理由あってのことだろうと思うと、彼女はとても放ってはおけない心持ちなのである。

 その理由が理解できずとも、困っているのであれば助けになりたい。

 純粋にそう思った。


 ふと周囲を見回すと、ロスウェルは笑い転げているが、彼の先ほどの発言どおり、衛兵は侍医を呼びに行ってくれたらしい。

 そのことに少しホッとして。ならばとロアナは、ウルツに向き直って深呼吸。


(……落ち着いて。殿下をお助けしなければならないのよ。慌てていてはダメだわ……)


 ウルツの思いがけない行動に、つい動揺してしまったが、こういう時、慌てていてはまともに対処ができない。


 ──その昔、彼女がまだ城下に住んでいた時分。

 彼女の兄は足しげく酒場に通い、そして酒におぼれては、いつも騒動を起こした。

 そんなときに兄を迎えにいくのはいつもロアナ。

 母は病床、弟は面倒くさがって絶対に手伝ってはくれなかった。

 酒の入った兄の暴れっぷりはすさまじく、それを一人なだめるのは、相当な苦労。

 毎夜そんなことを繰り返していたから、そのうち店の常連客らが同情して手を貸してくれるようにはなったが、それでも十代そこそこのロアナが、五歳も年上の酩酊した兄を制御するということは、かなりの労力。


「……ふー……」


 深い呼吸で多少落ち着きを取り戻したロアナは、いまだ魔法壁の向こうに閉じこもり、水を浴び続けているウルツの肩口あたりに顔をよせ、そっと呼びかける。




 自ら生み出す豪雨を浴びながら……ウルツはずっと考えていた。


(……この状況はいったい………………)


 一の宮の廊下で横たわり、魔法で他者を拒絶したうえでの水浴び。


(……、……、……珍妙すぎる……)


 どう見立てても、気が遠くなるほどに馬鹿馬鹿しいこの状況に、ウルツ自身とてもゲッソリした。

 

 こんな奇行に走る自分が信じられない。

 だが、問題なのは、この馬鹿馬鹿しい行動なくしては、今、自分がこの場では耐えられないだろうという事実。


(いったい……どうなっているんだ……?)


 ウルツは呆然と己に疑問を呈したが。早鐘のように身に響く動悸が邪魔して、普段のように冷静に思考をまとめられない。

 その思考のあちらこちらに浮かぶ、ベージュの髪の娘の顔。

 ……どうしたことだろうか。


 その緑色の瞳を思い出すと……。

 先ほど自分の頬をかすめるようにして去った感触を思い出すと……。


 冷たい土砂降りのような雨を浴びていてもなお、ウルツの体温はさらに上がる。

 これにはウルツは呆然。


(ば、馬鹿な……⁉)


 ウルツは思わず苦悩に喘ぐ。

 自分が未知の感情にのみこまれていく感覚には、恐怖すら感じた。

 これまで、自己を厳しく律し、国の立派な歯車の一つになるべく築き上げてきた自分という存在が、あっけなく崩れ落ちてしまったように思えて……愕然とした。

 それを防ぐためには、今すぐこの感情から脱しなければならないと、冷静な自分が警告しているのに……。


 ウルツには、どうしてもそれができない。


 どこかで、この熱を強く求める自分がいる。それが、本当に信じられなかった。

 ウルツはもはや頭が真っ白で。

 これまでの二十五年という歳月で築き上げてきた、“第三王子ウルツ”という自分が、高く、そして強固に積み上がっていたからこそ。この大きく走った亀裂のような感情には、抵抗感も大きかった。


 もし、彼が弟ロスウェルのように適当な性格であれば、この受け止めもまた違っただろうが……。

 残念なことに、ウルツはあまりにも生真面目。

 そして、あまりにも、色恋に免疫がなかった……。


 ウルツは途方に暮れた。

 苦し紛れの魔法も少しも効果がない。

 まぶたの裏にはずっとロアナの顔があって、体温は上がっていくばかり。しかも、この奇行をロアナに現在進行形で目撃されているのかと思うと……あまりに……情けなくて。


(…………まるで、自分がなすすべのない赤子になったかのような気分だ……)


 これは王族の一員としての自負が強い青年のプライドを大きく傷つけた。

 ともすれば、立ち直れないほどに。


 と、そのときだった。


 閉じた瞳の向こうで、誰かが彼を呼ぶ。


「──殿下、殿下……?」


 優しい呼びかけが、ロアナのものであることはすぐに分かった。

 それは一瞬彼を動揺させるが、彼女の声は、その動揺ごと彼を温かく包んだ。


「大丈夫ですよ、なんにも心配ありません。わたくしめ、人の介抱や看病には慣れております。わたくしでよければ、殿下が落ち着くまでずっとそばにおりますから。ですから魔法をお解きください」


 その安心させようとするような言葉を聞き、ウルツはうっすらと瞳を開く。

 すると、透明な壁の向こうでロアナが彼を見ている。その緑色の瞳は、ずっと目を閉じていたウルツが、ひとまず自分を見たことに安堵しているようだった。


「殿下、よかった、少し落ち着かれました? 苦しいところはございませんか?」


 そのいたわりの言葉を聞いた瞬間、ウルツは自分の変化に驚いた。

 あれだけうろたえていた気持ちが、ロアナの穏やかな顔を見たとたん、ふっと、まるで唐突に嵐がやんだように落ち着きを取り戻していた。

 代わりに動悸はいっそう早まったが、それは動揺というより……。


 その瞬間、彼を覆っていた魔法壁は消え、雨もやんだ。


「……、……ない」


 ウルツの短い返事に、ロアナがホッとしたように息を吐く。


「そうですか……。では、ひとまずお部屋でお召替えを。今、侍医もまいりますから……」

「……いや、大丈夫だ」


 介添えしようとするロアナを、ウルツは慌てて制して立ち上がる。

 その身は、全身ゆかいなほどにずぶ濡れで、なんとも情けない有様ではあったが。それでもどうやら自分を取り戻したらしいウルツは、普段と変わらぬ真顔でロアナに言った。


「煩わせてすまない。わたしはもう大丈夫だ。……できれば、今夜のことは忘れてくれ……」


 どこか気まずそうにそう言って、ウルツは遠巻きに彼らを見ていた衛兵にロアナを二の宮まで送るよう命じる。

 その命令には、まだウルツが心配だったロアナは戸惑いを見せたが。けれどもウルツは、そんな彼女の顔を見なかった。いや、どうやら見たくても、見られないという心持ちらしい。

 そんな兄の心情を察し、衛兵と同じくそばに立っていた弟はニヤニヤ笑いを隠さなかった。が、そんなロスウェルに、ウルツが唐突に濡れた腕を伸ばす。


「⁉ え……⁉ ちょ、何⁉ おいウルツ! なんの真似だ!」


 突然兄にヘッドロックされた弟は暴れたが、ウルツはそんな彼を鋭く睨む。


「……うるさい。貴様はとっとと部屋に戻れ!」


 厳しい口調で言って、ウルツはそのまま暴れる弟を連れてその場を立ち去っていった。

 もちろんこれは、これ以上この放蕩者の弟が、ロアナに絡むのを防ぐためである。


 しかし、そんなウルツの心情を知らぬロアナは慌てた。

 先ほど謎に倒れていた青年のことである。

 そんなにせかせか歩いて大丈夫かと、ロアナは案じたが……。


「あ! で、殿下……⁉ お、御待ちくだ──」

「ロアナ!」


 と、ここで誰かに名を呼ばれた、ロアナはとっさに足を止める。


 ……気がつくと、後方の廊下から、フォンジーとイエツが走ってやってくる。


「……フォンジー様?」


 その必死な様子に驚いていると、駆けつけたフォンジーはすぐさまロアナの両手を握る。


「どうしたの⁉ こんな時間になんで……なにこれ⁉」


 フォンジーは、水浸しの床を見て、きれいな眉間にしわを寄せる。

 しかも彼女の周りには、なぜか微妙そうな顔をした衛兵が何人もいる。


「何があったのロアナ⁉ さっきの叫び声は何⁉」

「それが……」


 青年に視線で説明を求められたロアナは、困った表情で廊下の先を見た。

 暗がりの奥に去っていく、ウルツとロスウェル。

 正直なところ、彼女もこの状況がよく分かっていはいなかった。

 ただ、ふと気がつく。


「……ぁ……結局……ウルツ殿下にこれをお渡しできなかった……」

「え……?」


 ぽつりと言って、エプロンのポケットから例の包みを取り出したロアナはため息。

 その落胆したような響きに、フォンジーの瞳はとまどいを映した。





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