衛兵の目撃談 10 ロスウェルの意趣返し
「…………噓でしょ……」
ロアナの一言で、見事にフリーズして動かなくなった兄を見て、ロスウェルが愕然としている。
そいつはただの兄ではない。
彼が煩わしく思うほどに生真面目で、鼻持ちならないほどに冷静な兄ウルツなのである。
彼がいたずらに水をぶっかけてみようとも、愛書に虫の抜け殻をはさんでみても、無反応。
いら立ちが募った彼は、大人になると、兄のもとに色っぽい友人たちを送りこみ、秋波を送らせ誘惑させてもみたが……その反応は迷惑そうなばかりで、まったく面白みがなかった。
ウルツの無反応さかげんに、送りこんだ娘たちのほうが泣いてしまったくらいなのである。
……それなのに。
その、女人になど興味がかけらもないと言わんばかりだった兄が、たった今、そこにいる娘の、なんの変哲もないような一言でたちどころに凍り付いてしまった。
その反応は、とても微妙で分かりにくく、それを言った娘ですら気がついていないようだが。
年中、この兄の鼻を明かしてやりたいと願い続けてきたロスウェルは察知した。
あれは確かに、動揺である。
ゆえに、信じられない。
(い、今ので? あ──あれだけで⁉)
女好きのロスウェルからすると、それは驚愕の初心さ。
あのウルツが、女人に『会いたい』と言われたくらいで、動けなくなるほどの衝撃を受けるとは……。
(い、いや……だって、こう言っちゃなんだけど、わたしが送りこんだ子たちのほうが、色っぽくて魅力的じゃなかった⁉)
ロスウェルは、その、兄に衝撃を与えた娘を凝視した。
たしかに愛らしい顔立ちではあるが、素朴な雰囲気の娘である。言ってしまえば、どこにでもいそうなタイプ。
彼が兄をからかいたいが為に送り込んだ、洗練された娘たちとは正反対なのである。
(ぇ……えぇ~………………)
ロスウェルは、言葉を失った。
おまけに意味が分からないことに、ウルツは現在、娘に捧げられた小さな包みを見て苦悶の表情。……なんだそれ。どういう感情なの? と、弟はすっかり困惑。彼よりもさらに遠巻きに、王子と侍女のやりとりを見守っている衛兵たちも、もちろん漏れなく戸惑っていて、場は、しん……と、静まり返っていた。
……とりあえず、皆、ウルツがその侍女に特別な感情があることは、なんとなく察したらしい……。
その異様な静けさに。ウルツに向かってクッキーの包みを差し出したまま、腰を折って頭を下げていたロアナは恐々と額に汗。
(あ、あれ……? なんだか周りの雰囲気が……へ、ん……?)
しかも、何故かウルツは包みをいつまでも受け取ってくれない。これにはロアナは非常に焦った。
もしかして受け取ってもらえないのだろうかという不安が胸に湧いてきて、掲げた腕もそろそろ限界。
ロアナは恐る恐る視線を上げて、目の前の王子の様子をうかがおうとする──が。
「あら⁉」
顔を上げたとたん、ロアナが声を上げる。
いつの間にか、目の前にいたはずのウルツが消えている。
戸惑っておろついていると、そばにいたロスウェルがそっと指をさす。
「……あっちだよ」
「⁉」
示されたほうを見ると、少し離れた廊下の暗がりに、ウルツがたたずんでいる。
壁に顔を突き合わせ……腕組みし……力のこもった背中には。なにやらただならぬものを感じ、ロアナは呆然。
「……で……殿下は……どう、なさったのですか……?」
「いや、こっちが聞きたいよ……」
訊ねられたロスウェルは、ついぼやく。
娘が頭を下げている間に、何かに耐えられなくなったような兄が、ヨロヨロと壁際に退避していった表情は、何か感情を持て余しているというふうだった。
そんな兄の顔を思い出したロスウェルは、ふっと笑う。しかしその表情は、いつものように嘲笑っているというよりは、どこか諦観がにじみ、生温かい。あははと、ロスウェル。
「多分……心の準備でもしてるんじゃない?」
「こ、心の……?」
それは、いったいなんの? と、ロアナは困惑。
彼女は眉を八の字にして視線を落とし、自分の手のひらのうえに乗った包みを所在なさげに見つめた。
これは、さしあげないほうがよかったのだろうか。
この菓子を守ってくれた彼に、せっかくならば味わってほしくて持ってきたが……もしや第三王子は甘いものが嫌いだったりするのだろうか。
(そりゃ……甘いものが苦手な方もいらっしゃるわよね……)
ウルツの激しい甘党ぶりを知らず。そう肩を落としたロアナは、ふと、いつぞやに出会った、第三王子と同じ年代くらいの、長い黒髪の若者を思い出した。
二の宮の衛兵かなにからしい彼は、口数少ないながらも、『……甘いものが好きだ』と言っていた。『……お前の菓子は、いい』とも。
その静かな言葉を思い出したロアナは、少しだけ口元をほころばせる。
そして、あら? と思った。
なぜ今彼を思い出したのだろう。
(……でもそういえば……あの方と、ウルツ殿下、少し雰囲気がにているような……?)
と、そのときだった。
彼女の隣で、アゴに指をかけて何やら考え込んでいたようすのロスウェルが、ロアナにぐっと顔を近づけてくる。
「え……? で、んか……?」
「……ね、ちょっと、ウルツの様子見てきてよ。それでさ……」
「え……? そ、それはできま──」
身を寄せてきたロスウェルに、耳元で小さく耳打ちされたロアナは困惑顔。
「いいから、いいから。本当にそうしろってんじゃないし。ただの方便だよ。ほら行って行って」
「は、はぁ……」
王子に急かされて。ロアナは戸惑いつつも、ウルツのそばへ。
「あ、あの……ウルツ殿下……」
「…………」
横からのぞくと、壁際のウルツは額に手を当て、苦悩顔。
もし、これが明るい場所であったなら。ロアナはその顔色が非常に赤いことに気がついただろう。
しかし、ウルツが冷静になろうと慌てて退避してきたのは、灯りの届かぬ薄暗い壁際。
夜闇にまぎれ、色味の判別できぬ苦悩顔はとても苦しげに見えて。驚いたロアナは、とっさに、案じる言葉と、ロスウェルに『言え』と指示された言葉が混ざってしまう。
「殿下⁉ ご気分でも⁉ いらないのならこれはロスウェル様に──わたし、すぐ(侍医のところへ)行ってきます!」
「⁉」
──つまり。
ロアナは、兄の気持ちを量りたいロスウェルに、『その包みのものがいらないなら、僕に渡すぞって言ってみて』と命じられたのだが。
慌てたロアナは、大事なところもうっかり飛ばし、絶妙なセリフ。
その言葉を聞いたウルツは、ギョッとして振り返る。




