兄弟の衝突 2
廊下に短い悲鳴がとどき、その声を耳にしたフォンジーは厨房のなかへ駆けこもうとした。
「ロア──」
しかしその入り口で、彼の足はギクリと止まる。
──厨房の奥で、ロアナが兄に向って平伏している。
その姿は、フォンジーに昨日のいたましい光景を思い起こさせた。
自分の母親の命令で鞭打たれ、ひたすらたえていたロアナ。そのつらそうな横顔を思い出したフォンジーは、愕然とした。
頭を下げつづけるロアナに、兄は昏い視線を注いでいる。(※ウルツ、困惑中)
いったい何があったのだとフォンジーが息を呑むと、その間に兄は、どこかぎこちなくロアナの傍らにひざまずいた。
もしここで、兄の表情が少しでも柔らかければフォンジーの不安も軽くなっただろうが……ウルツの顔は、いつにも増して偏屈に歪められていた。
兄はゆっくりと片手を持ち上げて、その手がロアナの肩に触れそうになった瞬間に、フォンジーは飛び出していた。
慌てて厨房に駆けこんで、彼女の頭側にいた兄と彼女の間に割って入る。と、兄が驚いたような顔をしたのが分かったが、フォンジーはそれにはかまわなかった。
まず床の上の彼女の顔を覗きこむ。
……と、近づいてきた気配に気がついたのだろう。一生懸命頭を下げていた娘が、ハッとしたように顔を上げた。
そこに現れた、怯えたような表情を見た瞬間、フォンジーはカッとなっていた。
「……兄上、なぜこんな……怪我をしている女の子になんてことをさせているの⁉」
「……」
弟の責めるようなまなざしに、ウルツは沈黙。
(フォンジー? ……戻ってきたのか……)
弟に押しのけられるような形でロアナとの間に割りこまれたウルツは、いぶかしげに弟を見た。
……これは彼の悪い癖だが……あまり人に理解されようという気のないウルツは、何かにつけて黙してしまう。
きちんと釈明すればいいところを、そうはせず、自分の中での思考にこもり時間をかけるので、それがまわりには誤解を与え、『何を考えているかわからない』と言われることにもつながる。
今回も、一連のことを己の中で振り返ったウルツは、自分には重大な過失があるようには思わず、弟に説明してやる義務を感じなかった。
彼はただ、クッキー生地に突っこんでいった娘を助けただけである。
それに、何も知らない弟に、いきなり責めるような口調で睨まれたことも気に入らず、ウルツはフォンジーを無視し、ロアナを見下ろした。
「……おい」
ウルツが低く呼び掛けると。急に戻ってきたフォンジーに気を取られていたらしいロアナの肩が跳ねる。
「! は、はいウルツ様!」
ロアナは改めてウルツに向かってかしこまる。
ウルツに驚いて(ビビッて)跳びあがってしまってからは展開がめまぐるしく、彼女はウルツに魔法で助けられたことも、まだわかっていなかった。
しかも、先に帰っていったはずのフォンジーが、なぜか厨房に戻ってきている。
彼を引っ張っていったイエツはどこへ行ったのだろうか?
それになぜ、戻ってきた彼は怒っているのだろうか?
いつもほがらかなフォンジーの怒りの表情がロアナをさらに戸惑わせていた。
と、そんなロアナに、ウルツがいくらか沈んだ声で言った。
「……驚かせて、悪かった」
「え……?」
これに小さく声を上げたのは、ロアナではなくフォンジー。
彼は、この兄が父やイアンガード以外の人間に謝罪をしているのを見たことがなかった。
それも、すべてが政務に関すること。それ以外では、この冷たくそつのない兄が誰かに謝っているところなど、フォンジーははじめて目撃する。
どこか神妙な面持ちの兄に、フォンジーは戸惑う。
片や、その言葉を向けられたロアナも戸惑いを見せたが、自分が第三王子に謝罪されているのだと理解すると、彼女は慌てて首を横に振る。
「そんな……わたくしめこそ大げさに驚いてしまって……本当に申し訳ありませんでした!」
「……いや、」
再度頭を下げる娘に、ウルツはなんだか申し訳なくなり言葉が続かない。
先ほどフォンジーが駆けつけてきたとき、顔を上げたロアナがとても怯えた顔をしていたのを、彼もしっかりと見ていた。
彼女のことを守ろうとしてやったことだが、彼女にあの顔をさせたのは間違いなく自分。
落胆を感じた彼は、ロアナのかたわらで自分を凝視してる弟に目をやった。
すると美しいと評判の弟は、大きな目を細めて警戒のまなざし。
それが正義感からなのか、他の感情からなのかは、人間感情の機微に疎いウルツには測ることができないが……。
どうやら弟がロアナを特別に想っている。それは、彼がわざわざここに引き返してきたことからも明らかだった。
(……これは、引き下がりそうもないな……)
ウルツは、誰にも悟られぬ程度のため息をかすかにフッと吐く。──ならば、こたびは自分が引き下がるしかない。
ここで引くのは非常に悔しいが……自分はすでにロアナの菓子作りを邪魔してしまっている。これ以上、ここで弟と揉めて、作業の中断を長引かせるのはあまりにも忍びない。
彼女と菓子を作るというせっかくの機会が失われるのはとても惜しいが……残りの作業はきっと、今そこで自分を睨んでいる弟が喜んでするのだろう。
もちろん許されるのなら、それは自分がやりたかった。
それに、なぜか当たり前のようにロアナの隣によりそう弟の姿にも、非常にいらだちを感じたが……。
「……」
ウルツはそれらのもやもやとした感情はみじんも顔に出さずに、二人の前で身をひるがえした。
弟はまだ彼に物言いたげだが、そのけして愉快ではないだろう兄弟のやりとりを、ロアナに見せるつもりは毛頭ない。
そして青年はわずかにロアナを横目で見て、「……残りはそやつに手伝ってもらえ」と、言い捨てた。
「え……あの、殿下……?」
ウルツは感情を殺したつもりであったが、声に、ほんのわずかに不満が滲んだ。
そのささやかな違和感に気づき、ロアナが気がかりそうな顔をする。控えめな様子で自分の顔を見ようと首を伸ばした娘に、ウルツは、低い声で言い添えた。
「…………身体に触って悪かった」
「え?」
「えっ⁉」
その言葉を聞いたとたん、ロアナはキョトンとし、フォンジーの眉間には深いしわが刻まれた。
青年はそれはいったいどういう意味だ、触ったってどこに⁉ と、焦ったようにロアナと兄とを凝視している。が、その間に。
聞き捨てならないセリフを残したウルツは、慌てている弟を冷めた目で一瞥すると、そのままさっさと厨房から出て行ってしまった。




