透き通る涙石
鐵月の脳裏に過ったこの記憶はなんなのか。どうして突如として思い出したのか。会話の声は朧げだが、その時の意識ははっきりとしており、光景が鮮明に思い出せる。
わからない事が多い。思い出した記憶を基に考えをまとめたい。もしかしたら、まだ忘れてしまっている記憶があるかもしれないが、誰がどう思っていても、時間は無情にも過ぎて行く。
続々と全校生徒は自身のクラスに戻ってき始め、水面も教室を静かに出ていき、
「詳しく話してもらうから。また後で。」と言い残し、教室を後にした。
ほんの十分足らずで、皆クラスに戻り、席につき、教科書を取り出す。あと数分もすれば五限が始まる。
五限の開始を伝えるチャイムが鳴る。教室に先生が入り、号令を呼びかける。
「起立、気を付け、礼。」日直の号令が掛かり、授業が始まる。先生は真面目に授業をしているが、鐵月の頭にはまるで入らない。先ほど思い出した記憶の断片が常に思考の邪魔をする。
「ここの問題わかる人〜。」
覇気のない先生の呼び掛けに反応した者達が次々と挙手をする。
「金剛、寝るなよ?次怪しかったら解いてもらうからな?」
よほど授業が退屈なのか、体育の後の食事で眠気が来たのか、金剛の頭は前後に激しく揺れていた。その一連の流れを見た教室内では、ひと笑い起こり、授業が再開される。そして、挙手していないはずの鐵月を先生は指した。
「鐵月、分かるか?」
「2√5?」
「はい正解。分かるなら積極的に手、挙げてけ?」
何故先生は、鐵月が答えられると思ったのか。数学に限らず、鐵月の成績は中の下辺りのため、正答は期待できないと思われるが、「先生には何か、問題が解けた者特有の癖のようなものが、見たら分かるものなのか」と疑問に思った。
「この時期の子供は、非常に記憶が不安定なので、できれば本当の家族のようにお願いします。」
「もちろんです。この子は今から正真正銘、うちの子になるんですから。」
「それが聴けて安心しました。…ただ、いずれはこの子が本当のことを知ってしまう事も考えられます。その際、真実を伝えるのか、また、どう伝えるかはあなたに委ねます。」
「分かりました。でも…その時が来ないのを祈ります。」
「それでは、この子をよろしくお願い致します。」
「はい。…安心して。今から私は、あなたのお母さんよ。家に帰ればお父さんも居るから。お家に帰ろう?」
「はーい!」
玄関口からその様子を密かに見ている映像が呼び起こされる。二人の大人と一人の子供が一カ所で話をしている。しゃがみ込んで子供に話しかけた大人はとても優しそうで、穏やかな表情をしていた。もう一人の大人は、口調は丁寧だが、笑顔に何か影があるように感じさせた。子供は、手を挙げて返事をし、無邪気に笑っていた。
「それじゃあ、帰ろう?叡。」
また呼び起こされた記憶。我に返った鐵月の表情は、よほど酷いものだったのか、先生から声を掛けられる。
「鐵月、顔色悪いぞ。大丈夫か?」
「…はい…大丈夫です。」
「あまり大丈夫そうには見えないが、一応保健室に行って休んで来い?誰か。鐵月に付き添ってやってくれ。」
「じゃあ、俺行きます。」
「金剛、お前そう言って授業さぼるつもりじゃねえだろうな?」
「ひどい!ちょっとは信用してくださいよ。」
「なら信用に足る行動をとれ。」
先生の尤もな意見に、またも教室内ではひと笑い起こる。それでも結局は、金剛が付き添うことになり、先生から
「さぼらず戻って来いよ?」と再度注意されて教室を出る。
「鐵月、またなんか思い出したのか?」
「うん…それも施設から瓜生さんが保護されていくところの記憶。」
「…なあ、それマジなのか?俺らが施設育ちって。」
「僕の記憶に間違いがなければ、その通りです。」
保健室へ向かう道中、鐵月は、先ほど見た記憶の光景をすべて話した。
「全然ピンと来ねえな。俺らが同じ施設で育ったんなら少しくらいは覚えていてもいいもんだけどなあ。」
「確かにそうですね…何故僕だけが鮮明に思い出せるのでしょうか…。」
「っと保健室ついちまったな。話はまた後でな。じゃ、気ぃ付けろよ?」
金剛に無事送り届けられ、保健室の戸をノックし開ける。
「どちら様?」
「2-Cの鐵月です。具合が悪くて、休ませてくれませんか?」
「じゃあ、先に体温測ってくれる?」
話し相手は、養護教諭の夕南 翠先生。鐵月は熱中症で数回お世話になったことがあり、面識はあるはずだが、先生側は鐵月の事を覚えていない様子で、淡々と事務的に進めていく。
「36.3℃、平熱。休みたいなら空いてるベッド使ってくれていいから。」
確かに数字だけ見れば平熱だが、鐵月にとってはやや低体温寄りで、すぐにでも横になりたい思いがあった。
「すみません。ベッドお借りします。」
そうしてベッドに横たわった途端、疲労が溜まっていたのか、まるで事切れた様に鐵月の意識は遠のいて行く。
見慣れない天井が目の前に広がっている。思うように体は動かせず、誰かわからない大人の男女の話し声が聞こえるのみ。
「次の子の情報を。」
「はい。性別女、適性涙、パターン石と推測。」
「涙か。少々面倒だな。」
「ええ、涙は激痛で泣かなくなる子が多いですから。この子がそうならないことを祈るばかりです。」
「それで、何に変換するつもりだ?」
「現時点では、ガラスのような透明部品がやや不足しているため、石英。水晶を考えています。」
「なるほど。ならばそれで進めておけ。」
「承知致しました。すぐにでも取り掛かります。」
そうして男女の会話は終わり、一定の間隔でカツカツと足音と思われる音が聞こえ、扉を開け、すぐに閉じる音が部屋に響く。
「…っと。あなたも可哀想ですねぇ。涙に適性を持ってしまうなんてぇ…。せめて失明だけでも、避けたいですねぇ。」
おそらく子供を抱えて喋っているであろう男性の声が聞こえてくる。先程まで居た女性と話していた時の真面目で事務的な雰囲気とは打って変わって、語尾が伸びた、気の抜けた話し方で、表情は見えなくてもニヤついているのが声色から伝わってくる。
「それじゃあ、そろそろ行きましょうかぁ。完全に無色透明の綺麗な水晶を期待していますよぉ。…そういえばぁ、名前決めないとですねぇ…雫にしましょう。」
そうしてまた、足音と思われる音が聞こえ、扉を開閉する音が部屋に響く。その音を合図に体を起こす。視界には、周りに何もない無機質な部屋に数人の幼児が居り、各々が四つん這いになって動き回ったり、座ったままだったりと様々だが、その空間で誰かに触れたり、話し掛けたり、感情を出したりする者は一人も居なかった。
目の前にシーツが見える。自身が今見ていたものが夢ではなく、実際に過去に経験した確かな現実である事を認識した後、静かに体を起こし、ベッドに座り、寝ぼけ眼で辺りを見渡し、自身が保健室に居た事を確認する。
寝汗を回収し、先生に尋ねる。
「すみません夕南先生、今何時ですか?」
「15:28。もう放課後だよ。」
気分は大分マシになったため、立ち上がろうとしたその時、保健室の扉がノックされ開き、瓜生、金剛、水面の三人が入ってくる。