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道徳の意味づけ  作者: 弾泥
第一章 目的を意味づける
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人間の目的と意味

 家族、恋人、友人、仕事、夢、富、社会的地位や権力――人は誰しも、なにかに生きる意味を見出して生きているが、これらの生き甲斐とも言われるものには、ある共通点がある。それは、どれも失う可能性が絶対にないとは言いきれないということだ。

 今は幸せな家族も、もしかするとそのうち一家離散の憂き目に遭うかもしれない。恋人にはふられるかもしれないし、どれだけ信頼の厚い友人がいたって、いつか仲違いしないとも限らない。仕事だってリストラされたり会社が倒産することで失う可能性があって、夢はいつか破れるかもしれない。富に関しても、投資の失敗や犯罪被害に遭うことで一瞬でなくなることがある。強大な権力のある社会的地位に就いている人は、自分の人生はいつまでも安泰で、俺はほかの平凡な奴らとは違うんだと思っているかもしれない。しかしおごれる者は久しからず、思いもよらぬ事態はいつでも起こりうる。そうして失脚すれば、かつての権力者もただの人だ。

 精神的に依存していたものを失ったとき、人は絶望の淵にたたき落とされる。最悪の場合、みずから命を絶つことにもなりかねない。縁起でもないと思われるかもしれないが、この世界でなにが起こるかなど、誰にもわからない。未来は、いつだって不確定だ。


 ここで一度、自分のもっているもののうち、失うことのできるあらゆるものを失ったと仮定してみよう。住むところも、お金も、衣服も、仕事や社会的な立場、家族や友人といったあらゆる人間関係が絶たれてしまった場面を想像してほしい。

 それでもあなたには、まだ失っていないものが――あなた自身が存在しているということ、あなたがこの世界で生きているという事実だけは、生きている限りなくならないということに気がつくだろう。

 これは、なにを意味しているのだろうか。わたしの言いたいことはつまり、自分自身と世界そのものに生きる意味を見出すことができれば、人は絶望にも強くなれるはずだということだ。


 誤解してほしくはないのだが、なにもここで、感傷的なことをつらつら述べたいわけではない。本稿はあくまで論理的に、人びとの一生に一貫した意味をもたせる試みとして書かれている。

 今まではその役割を担っていたのは、たとえば宗教だったかもしれない。しかし宗教は神や自然(宇宙)の意志といった超自然的なものを原理としていたばかりに、そういった原理を受け入れられない人には、高いハードルがあった。そうではなく人間を原理にもってきたなら、きっと誰でも受け入れられる意味づけができるのではないだろうか。

 そのようにしておこなわれた人間への意味づけは、道徳と呼ばれる。本稿の目的は、超自然的な存在を持ち出さずとも、論理として道徳を納得のいくものにすることにある。


 ところで、意味とはなんだろうか。広辞苑(第五版)で調べてみると「①記号・表現によって表される内容またはメッセージ」「物事が他との連関において持つ価値や重要さ」と出てくる。生きる意味といった場合の意味は、②だろう(①の意味は第一〇章で扱う)。

 他との連関においてということは、あるもの単体というよりは、複数のものの間の関係性を表す言葉だと考えて間違いないだろう。つまり意味とは言い換えれば、ある目的と手段という関係があって、その手段がその目的に役立つことを表していると考えられる。たとえばお金に意味があるのは、お金を使うことで生活必需品を購入したり、娯楽に費やしたりして、生活や楽しみといったさまざまな目的に役立てることができるからだといえる。


 だとすると、なにかに意味があるというためには、それがなにを目的としているのかが特定されなければならない。その目的はなるべく、失うことのないものがいい。それは人間の、不変の目的だ。まずは人間が人間である限り、誰であろうとつねに目指し続けている、最大の目的を知らなくてはならない。

 人間の目的とはなんだろうか。難しく考えなくとも、人間が生物であることを思い出せば簡単にわかる――<生きること>だ。


 ――人間は、生きることを最終目的にしている。


 これが本稿で採用する最高原理になる。

 人のあらゆる行動は、この最終目的に役立つかどうかで、その意味が判断される。本稿の内容に納得できるかどうかは、この原理に納得できるかどうかに大きく依存するだろう。

 たんなる希望的観測を述べるなら、このことに反対する人はあまりいないように思う。なぜなら、人間に生存本能が備わっていることは、今では常識として広く受け入れられているからだ。少なくとも、生存が誰もがもっている目的だろうこと自体は、多くの人が認めるに違いない。


 現代生物学の前提とされる自然選択(進化論)の原理では、生存繁殖に役立つ特徴を発現させる遺伝子が子孫に受け継がれ、そうでない遺伝子は淘汰される。だからわれわれは生存に役立つような仕組みをさまざまにもっているわけだが、そうすると、われわれが生きることを最終目的にしているという原理は、自然選択理論の下位原理と考えることもできるだろう。当然生存を目的としてもつほうが、そうでないものよりも生存確率が高くなるに違いないからだ。

 ただし科学というものは、いつでも対象を外から眺める。人間の主観を研究するときでさえ、人間を外から眺めて、対象の主観を推測するという方法がとられる。自然選択理論における生存繁殖に役立つ形質というのは、結果として生存繁殖に役立ったと推測できるというだけであって、その理論から未来にかかわるなにかが演繹できるわけではない。


 対して上に述べた原理は主観的な推論にも用いられ、演繹の前提にもなりうる。目的とは意志の作用だから、主観的に構築されることでしかつくられない。自然選択理論では生存とともに繁殖に役立つかどうかも影響するが、実際には子どもをつくることをそれほど望んでいない人もそれなりにいることを考えれば、繁殖という目的は生存という目的に比べれば、意志への影響力という点においては、一段劣ると言わざるをえない。

 もちろん生存を目的に行動することが、結果的に繁殖の確率を高めるということはあるだろうし、だからこそそのような遺伝子、つまり生存を目的にするよう仕向ける遺伝子が、われわれに受け継がれてきたと考えられるのだ。その<結果として>、われわれは生きることを最終目的とするようできている。このように、経験的な科学と調和可能な原理ではあるのだが、決して同じことをいっているわけではない。


 ちなみにここで主観といっているのは、必ずしも<意識的に>そうしているという場合だけを指すわけではない。無意識に、そうした目的を志向するように促されているということも多いだろう。あとから思い返してみてもなぜそのような行動をとったのかがわからない、ということは誰しも経験のあることだと思うが、そのような行動を促したなんらかの仕組みも、もともとはなんらかの目的に役立ったから備わっている。

 進化生物学は生物の器官について<なんのために>という観点から考察することが多い学問だとはいえ、進化論はその形質が役立ったから結果的に受け継がれてきたという結果論の理論であって、実際にその時々でなにを意図しているのか、なにを意図させようとする仕組みなのかという目的論とは区別する必要がある。前者は過去を考察するものであるのに対して、後者は未来に向かっている。この差には、明確な断絶がある。


 当原理において重要なのは、たんなる目的ではなく、<最終目的>としているということだ。これは言い換えれば、生きること自体は他のなにかの手段となることはなく、その行為も含めた他のあらゆるものは人間にとって生きるための手段となる、すなわち「生きるための手段ではないことを、人は決しておこなわない」ということを表している。

 食事をしたり、働いたりといった行為についてはいわずもがなだが、一見すると生命の維持とはまったく無関係そうに思える、たんなる娯楽であっても同様だ。そういったものも、たとえ端からは無益そうに見えることがあるにせよ、楽しんでいる本人にとっては日々のストレスを発散することで心身の調子を整えていたり、それを日々の楽しみとすることで今日明日を生きる意欲にしていたりする。もし一切の楽しみがこの世界になければ、毎日の活動に小さくない支障を来し、かなりの生きづらさを感じることになるだろう。

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