全体の構成と意図
本稿の全体的な流れとしては、まずは第一章で原理を立てて、その周辺原則や基本的な価値概念の説明をしたのち、もしその原理を受け入れたならどのようなことが言えるか、既知の道徳哲学とどのようにつながっていくのかを、主に前半部(第四章まで)で説明していく。
後半(第五章以降)では伝統的な分類だがその区別基準が明確に述べられてこなかった完全義務と不完全義務の区別方法を明確にしたり、有名なトロッコ問題を本稿の理論ではどのように解くことができるのかといった、道徳を巡る難問の解決を図っていく。既存の理論では一貫した説明を与えられてこなかった問題を解いていくことで、本稿理論の既存の理論に対する優位性を示せるに違いない。
道中で紹介しているいくつかの心理学実験では、誤った解釈によって混乱が生じているものも多いため、本稿理論と日常的な感覚等に整合的になるよう、解釈し直している。
最後の第一〇章では、この序文で先取りして説明しているような思考の仕方を、既存の論理学や認知科学に照らし合わせる形で、より詳細に論じている。
すでに説明したように、本稿では認識論を倫理学のための手段として位置づけ、利用している。理論認識(認識論)を土台に発展させることによって、実践認識(倫理学)を基礎づけようとした哲学者は多くいるが、もしかするとこの順番こそが、倫理学が歴史的になかなかうまくいかなかった要因かもしれない。手段を決めてから目的をどうするかを考えるのと、目的を決めてから手段をどうするかを考えるのとでは、どちらが自然な思考方法かは明白だろう。
本稿では理論認識から実践認識に上っていくのではなく、実践認識から理論認識に下っていくという構成になっている。これによって、両認識を一つの原理のもとにうまく統合することに成功したと、自負している。
具体的には、第一章、第二章、第四章、第五章、第六章にて、どのように行為していくのが正しいのかという実践に関する理論を扱い、第七章、第八章、第一〇章にて、人間がどのように物事を認識し判断しているのかという、認識方法そのものに関する問題を考察する。第三章では実践的判断の前提として必要な理論認識の方法を、先だって説明しておくために設けてある。第九章は実践的性格の強い内容を扱っているが、第七章、第八章の知識を前提しておいた方が納得しやすい部分もあろうかと考え、その後ろに置いた。
著名な道徳哲学者の理論や一般通念など、誰かしらの既知の考え方というものも、その考え方が生じる根拠となった、なんらかの経験的事実があったに違いない。もし設定した原理が正しく、既知の道徳理論も正しい面があるのであれば、原理のもとにその考え方を、既知の経験もろとも整合的に解釈できるはずだ。
こうした信念のもと、代表的な道徳学者としてのカント、ヒューム、ミルなどの思想をわれわれの直観と理性に合うよう統一し、論理学や進化学、さらにはいくつかの心理学実験とも整合性を図っていくことで、実践論理学の一大体系を構築していきたい。
こうした戦略の関係上、さまざまな書籍等からの引用も多くなるが、そのことは決してそのように学者が言っているから正しいと言いたいわけではなく(それだとただの権威論証にすぎない)、さまざまな学者のそのような主張とも整合的であることを示しているだけにすぎない。そうした考え方をする人がいるという事実の理由をうまく説明できたなら、その説明を導いた原理への信頼性もきっと高まるに違いないからだ。
問題にしているのはあくまで経験の処理の仕方であるので、本稿で心理学実験等を持ち出すときにも、そうした実験結果があること自体を直接の根拠としていることはあまりない(もちろん、たんなる人間の傾向について話しているだけなら、それ自体を根拠としていることもあるが)。そうではなく、そうした実験結果をどう解釈すべきかを説明することによって、人間の経験の処理の仕方を示そうとしているのだという点には、留意してほしい。
知りたいのは人間の行動傾向ではなく、人間の行為を生み出す仕組み、つまりなぜそのような傾向があるのかであって、その仕組みをどうしたら有効に活用できるのかということだ。人が因果関係を認識するには原因と結果をともに知覚することが必要だが(もともと知識として持っていた因果法則を、新たな事象に適用する場合とは区別されることに注意。これについては第一〇章参照)、意志と行為の因果関係については、他者の観察という方法をとる限りにおいては後者しか知覚できない(そのせいで、この関係を否定しようとする哲学者も出てくる始末だ)。
人の行為を経験的に収集するのみでは人間を理解するのに十分でないため、自身の内観に照らしつつ、なるべく整合性の取れる形で、可能な解釈を提示する以上のことはできない。このことは、カントが「超越論的」という言葉で、ウィトゲンシュタインが「示す」という言葉で伝えようとしたことと同じだと思われる。
なんらかの事象の根拠であれば、なんらかの知覚などの経験が直接の証拠となりうるが、そうした事象(誰かがなにかを考えているという事実を含め)そのものは理論の証拠とはならない。理論の根拠となるのはそうではなく、体系全体の論理的整合性と、いかに多様な事象を整合的に説明できるかという点に尽きる。
もし既存の哲学者によって提示された道徳原則が統一的な理論で裏付けられれば、数学における定理のように、証明されたものとして日々の判断に利用しやすくなるだろう。そうなればたとえば、義務論で考えるのか、功利主義で考えるのかと悩む必要もなくなる。
反対に、原理やそのもとに構築された概念体系に矛盾するような事象が発見されれば、理論全体に対する信頼性は揺らぐことになる。ならば、理論を証明するためにも、矛盾していると思われそうな事象や考え方をなるべく多く拾い集め、矛盾が解消されるような説明を与えていくことが重要となる。矛盾があると思われた事実が整合的になれば、矛盾する事象が減少すると同時に、整合的な事象が増えることになるため、理論全体のたしからしさが一気に増大することを期待できる。
こうして構築された体系が洗練されれば、たんなる感情や結論の押しつけではない、論理的な道徳教育も可能となるだろう。なぜ人を殺してはいけないのかを知らない人間が、人を殺さないように他者を教育するなど、できるはずがない。これまではせいぜい、「自分が同じことをされたら嫌でしょう?」というようなことしか言えなかった人でも、本稿にあることを理解することで、論理的な説明ができるようになることを目指したい。