倫理学と認識論、哲学の細分化の問題
現代哲学のもつ問題点の二つ目として、倫理学と認識論のつながりが絶たれていることがある。
カントがいうには「古代ギリシャの哲学は、三つの学問に分かたれていた。すなわち、自然学・論理学・倫理学である」(*1)
この分類は科学史家の山本義隆によると新プラトン主義以来のもので(*2)、邦訳『アリストテレス全集』訳注によるとストア派の哲学の三部門の分け方とされている(*3)。起源には諸説あるもののアリストテレスも、哲学の分類とは少し違うが、命題や問題を「品性に関わる命題」「自然に関わるもの」「理(論理)に関わるもの」に区分していて(*4)、古代ギリシャ時代からいわれていた区分の仕方だというのはたしからしい。
*1 カント著、野田又夫訳「人倫の形而上学の基礎づけ」『カント プロレゴーメナ 人倫の形而上学の基礎づけ』中公クラシックス、2005年、229頁。
*2 山本義隆『磁力と重力の発見1 古代・中世』みすず書房、2003年、202頁。
*3 アリストテレス『アリストテレス全集3』50頁(『トポス論』邦訳注)。
*4 同(『トポス論』第1巻第14章)。()内は邦訳者による言い換え。
このうち自然学は現在では自然科学と呼ばれ、哲学からは独立している。
アリストテレスの論理学に関する著作群(オルガノン)は、伝統的な著作集の配列ではほかの著作群より先におかれている。これは論理学の内容がほかの学問の基礎になると考えられたからだと思われるが、この学が自然学の基礎にはなるが、倫理学の基礎にはならないと考える理由は特にないだろう。
論理学は思考の仕方を考察するが、思考も広く認識のうちと考えれば、論理学は認識論の一種といえる。思考の前にもなにかしらの認識を要するのだから、自然科学や倫理学の基礎として認識論を据えるのは、ごく自然なことだと思われる。
したがって哲学の三区分は現代では、自然科学・認識論・倫理学になる。認識論は自然科学と倫理学の方法論を考察するもので、諸科学の基礎づけを目指す哲学や、知識論、こころの哲学などはすべて含まれる。自然科学の基礎づけとしての認識論という考え方ならば、新カント派から出発した論理実証主義(*5)を通って、科学哲学という形で、現在に続いている。パースやポリアによる蓋然的推論の研究も、自然科学の方法を基礎づけようとしておこなわれたものと考えられる。
だが倫理学の基礎づけとしての認識論という考え方は、なぜか現在ではさっぱり見かけなくなっている(エリザベス・アンスコムが実践的推論の方法を論じてはいるが、あまり役立つような内容には思えなかった*6)。
*5 飯田隆『言語哲学大全Ⅱ 意味と様相(上) 増補改訂版』勁草書房、1989年/2023年、271頁。
*6 以下を参照。G.E.M.アンスコム著、柏端達也訳『インテンション 行為と実践知の哲学』岩波書店、2022年[1957年]。G.E.M.アンスコム著、早川正祐訳「実践的推論」[1989年]門脇俊介+野矢茂樹編・監修『現代哲学への招待 自由と行為の哲学』春秋社、2010年、191~258頁。
認識論が道徳の基礎づけになりうるという考え方は、おそらく近代までは突飛な考えではなかったはずだ。というのもカントやヒュームは『純粋理性批判』や『人間本性論 第一巻』でまず認識論を論じて、その同シリーズとして後に続く『実践理性批判』『人間本性論 第三巻』で道徳を論じているのだから。われわれの認識のあり方と道徳がまったく無関係だと感じていたなら、それぞれはまったく無関係の著作として論じられていたはずだろう。
また「アリストテレスの残された著作の中でもっとも包括的な『認識論』は、……実践学の書である『ニコマコス倫理学』第六巻にある」(*7)ことからも、認識論が倫理学に必要とされていた分野だったことを感じられる。
この点については本稿でも同じ考えに立つが、認識論的な考察は、主に後半に回している。これはまず証明したいこと(規範理論)があって、その根拠として認識論的な主張を要することを理由としている。最初にゴールを提示し、そのための手段としての根拠を示す。この順序がもっとも、人が納得しやすい説明の仕方だと考えている。
*7 『アリストテレス全集2』583頁(邦訳者による『分析論後書』解説)。
現代哲学の抱える三つ目の問題は、根拠なき分野の細分化にある。
哲学はたとえば科学哲学、心の哲学、言語哲学、行為の哲学などその考察対象によってさまざまな名前で呼び分けられ、倫理学においてもメタ倫理学・規範倫理学・応用倫理学の三つに分類されるのが通常だ。このうちメタ倫理学と応用倫理学に関しては、どちらも20世紀に入ってからつくられた分野になる。つまり19世紀までの倫理学には、今でいう規範倫理学しかなかった。
メタ倫理学はG・E・ムーアが「もし善とは何であるのか、行為とは何であるのかということを述べる用意がなければ、私たちは倫理学のスタート地点にも立てないのだ」(*7)といってはじめたものだが、実際にはどのような行為が善いのかが決まらなければ、善とは何であるのかが決まらない。これは本稿(特に第一〇章)で人の認識の仕方を丁寧に記述していった末にたどり着いた結論で、わたしとしてはかなりの自信をもっている。
応用倫理学については、考えるまでもなく規範倫理学がその基礎におかれている。応用倫理学者は基本的に、功利主義・義務論・徳倫理学のどれかの立場に属している。ということはもちろん、規範倫理学が統一されない限りは、どれだけ応用倫理学者が頑張ったところで、応用的な問題についての意見を、人びとの間で一致させることはできないだろう。
結局は規範倫理の問題を解決しなければ、メタ倫理学も応用倫理学も、まともな議論を開始することができない。
たしかに現代科学は、多くの分野をもち、そのことがさまざまな科学者の協力を可能にし、とてもうまくいっているようにみえる。だがこれはすでに述べたように、現代の科学がその方法論を確立しているからこそ可能なやり方だ。
諸科学は方法論が確立しているために、個々の研究者が狭い範囲にだけ集中して研究していたとしても、それらの部分的な研究を整合的な形で組み合わせることができ、科学体系全体に対する信頼性が損なわれるようなことはない。これがたとえ科学の全体を完全に把握しているような人が、誰一人いないとしても、科学そのものへの信頼が揺るがないゆえんだ。
哲学者が科学の成功に触発され、同様の方法を採用するということは、これまでもあった。近代では科学の成功は数学の方法にあるとみたスピノザが、定義と公理から定理を証明していくというユークリッド幾何学の方法を真似ることで、哲学の問題を解決しようとした。
現代の哲学者が古代ギリシャ以来の三分類では満足せずに、さらに狭い領域に閉じこもることに違和感を覚えないのは、現代科学のやり方があまりにも当たり前にうまくいっていることからきているのかもしれない。
だがどのような手段を用いて進めていけばいいのかが、まだはっきりしていない哲学には、対象領域を狭めて考察の幅を集中させるというやり方は、時期尚早だろう。誰かの成果を定理のように確定したものとして、ほかの人が利用できるというなら、分野を細分化して研究することにも、意義は出てくるだろう。だがその利用元の知識もどれだけ信頼していいのかがわからないため、結局は自分の論じたい主張をしっかりと根拠づけるためには、利用元の知識が属している問題領域にも考察対象を拡大しなければならなくなる。それでは研究領域を狭めた意味がない。
前述したように現代の徳倫理学者は、しばしば「倫理学上の反理論主義」を標榜している。つまり現代の道徳哲学は、一方では分業化という時期尚早な科学の方法を取り入れながらも、他方では理論という哲学と科学が共通して利用してきた方法を棄てようとする。
どちらにしても、哲学の方法についての考察が不足したままで、科学の方法を取り入れようとしたゆえに生じていることだといえよう。つまり一方は科学的方法を形だけ模倣し、他方では科学的方法への理解不足のゆえに科学的方法をうまく取り入れられないだけなのに、哲学の方法は科学的方法とまったく共通するものはないと、安易に決めつけたことによる。
エンタメ作家でもある物理学者レナード・ムロディナウが「科学の理論と実験の両方に秀でるのはもちろん難しいことで、それを誇れるような一流科学者を私はほとんど知らない」(*8)というほど、同じように科学者と呼ばれる人だったとしても、実験家と理論家の仕事内容は異なっている。実験家と同じ方法(法則を一意に証明するような、制御された経験の収集)が哲学に使えないからといって、理論家のやっている仕事まで哲学から追放すべきとは限らない。
*8 レナード・ムロディナウ著、水谷淳訳『この世界を知るための人類と科学の400万年史』河出文庫、2016年/2020年[2015年]、271頁。
加えていうなら、近代科学の一つの特徴として考えられる経験的な根拠づけに関しても、たしかに経験は価値の十分な根拠にはならないが、必要条件としても使えないというわけではない。ほかに必要な要素と併せられるなら、われわれの経験も、価値の一つの根拠となるだろう。経験と価値の関係性は、主に第一〇章で扱う。
さしずめいっておきたいのは、本稿では既存の書籍などから多くの引用があるが、それらは決してすでにほかのだれかがいっていることを、数学の定理のように使っているわけではないということだ。その著者たちもなんらかの経験を根拠に、納得できているからこそそうした文章を書いたに違いない。もし本稿で主張する理論が正しければ、彼らに彼らの文章を書かせた経験とも、つじつまが合うものになっているはずだ。
そのことを示すために、ほかの人たち(昔の偉人もいれば、現代に生きている人もいる)の文章を引用している。つまり既存の文章を引用するのは、科学者が仮説を検証するために、観察や実験によって経験を集めるのと同じことだと思ってもらいたい。科学的な実験という方法が使えない以上は、他者の経験と照らし合わせるほかないだろう。
なんにせよ今日の哲学でおこなわれている分業は、哲学者が責任から逃れるための効果しかもっていないように思われる。哲学は万学の祖として、あらゆる学問を統括する立場にある。科学も含めたすべての経験を貫くような理論を構築することにこそ、哲学者の責任がある。
だから哲学者は、専門家であってはいけない。たとえば諸科学の基礎づけをおこなおうとする人は、われわれ人間の普遍的な認識の仕方(仕組み)の考察を飛び越えて、特定科学の哲学という限られた領域に専念する専門家であってはならない。政治哲学や経済思想、法哲学はわれわれがどうすべきかにかかわるものであり、倫理学をその基盤とするものなのだから、政治哲学者や経済思想家、法哲学者は規範理論の議論を飛び越えて、そうした領域に専念するような専門家であってはならない。というのはなにを目指せばいいのかもわからずに、手段である政治や経済、法を根本から論じることなど、できるわけがないからだ。
そして道徳的な規範はやはり、われわれの認識の仕方から独立ではいられない。道徳の問題に決着をつけるには、われわれの常識的な道徳感覚を認識論の観点から理論化することが必要で、反理論主義的な方法では永遠に、道徳を解明することなどかなわないだろう。