手段の義務と目的の義務 ~価値観、法律、強制~
一般に個性だったり、価値観、慣習の違いといったものは、不完全義務の範囲で成立する。
完全義務ならその基準は矛盾判断にもとづいているため、人や地域の違いによって認識が変わったりはしない。しかし手段(経路)の選択にすぎない不完全義務の内容は、ほかの人と共通しているという保証がまったくないので、個人の性格の違いや共同体によって異なることは十分考えられる。そうなると慣習とは、不完全義務に、特定社会内部における完全義務の見かけを与えるものだといっていいかもしれない。
法律には完全義務違反を禁止するものも、場合によっては不完全義務を強制するものもありうるが、その制定自体は不完全義務としておこなわれる。たとえ法律がなくとも、すべての人で客観的目的が共有できていれば安全な社会は実現しうるため、必ずしも法律が制定されていないことが、客観的目的の理念に矛盾するとは限らない。だが現実では、客観的目的があらゆる人で共有できているとはいいがたい。そのためリスクを減らすための手段の一つとして、法律は制定される。
不完全義務である慣習や法律は、あくまで数ある手段のうちの一つが偶然的に採用されているにすぎず、したがって唯一絶対的な正しさが保証されているわけではない。
にもかかわらず、行為の善悪を考えるにあたって、法律(特に刑法)で許されているかどうかを基準に考える人がいる。だが法律はあくまで、道徳を実現する手段の一つとして、たまたまそのように制定されているにすぎないので、善悪の根拠としては使えない。
あくまで道徳を根拠に法律がつくられているのであって、法律を根拠にして道徳がつくられているわけではないのだ。そのためどのような法律であっても、つねに改善の余地がある。
制度論など政治経済哲学が問題にするような内容は、どのような資源や権利の配分が適切か、貧困や機会の不均等などはどこまでを社会が取り除くべき障害と捉えるかといった、社会上のリスクを最小化する手段を問題とするものなので、不完全義務の範疇に含まれる。とはいえもちろん、社会が公正なものであること自体は、完全義務として要求される。
また経済活動は社会の価値を高めるためにあるので、本質的に不完全義務としておこなわれる。そのため経済には、多様性が要求されることになる。
誰であっても正当な目的を志向しているのならば、正当な目的に矛盾するように行動することはない。対偶をとると、正当な目的に矛盾する行動をとるということは、正当な目的を志向していないことの証拠になる。
したがって完全義務は、正当な目的を志向することそのものを義務づけるものといえるだろう。だからこそ完全義務は価値観(手段選択)の違いの影響を受けず、自由の埒外にある。
だがカントも指摘しているように「ある目的に向けての手段となる行為へと他人から強制されることはありうるが、何かある目的をもつよう強制されるということは決してありえない」(*1)。なぜなら目的そのものは心の中で完結し、目に見えるものとして現れないため、強制に従っているかを確認する術がないからだ。
*1 カント著、樽井正義・池尾恭一訳「徳論の形而上学的定礎」『カント全集11 人倫の形而上学』岩波オンデマンドブックス、2002年/2020年[1797年]、243頁。
それに対して、暴力行為のように社会上のリスクになりやすい行為というものはたしかに存在し、そのような目に見える行為が対象ならば、働きかけの結果が都度確認できる分、比較的強制しやすい。
こうした事情から、道徳のためなにかしらの外的な規制をおこなおうとすると、その対象はどうしても行為そのものとせざるをえない。反対に不完全義務はその違反を正当な目的を志向していないことの根拠にすることができないため、外的規制の対象にできない。
したがってリスクを増やす完全義務違反を示す行為のみが、外的強制を道徳的にも物理的にも可能とし、ここに刑事司法の正当性があるといえる。
シューメーカーのリストには、「法的な/道徳的な」という形容詞ペアがある。完全義務と不完全義務の区別は法学の分野の影響によってストア派の定義から意味の逆転が生じたようだと先に述べたが、これは法を制定する上で外的強制が許されるか否かを区別するために、完全義務と不完全義務の区別を利用しようとされたことによるのだろう。
強制の仕方には、自己強制(自律)と外的強制(非難や罰)の二種類がある。
自己強制は完全義務と不完全義務のどちらにもかかるのに対して、外的強制は完全義務のみにかかる。つまり不完全義務に可能な強制は、基本的には自己強制のみとなる(「法の義務には外的強制が道徳的に可能であるが、徳の義務は自由な自己強制にのみ基づく」*2)。シューメーカーのリストには「外的/内的」という形容詞ペアがあるが、これはこうしたありうる強制の仕方に由来するのだろう。
とはいえ目的をもつこと自体は外的に強制することができないので、本当の意味で完全義務を守らせるにも、この外的強制をきっかけとして自己強制を促す形でしか可能ではなく、直接守らせることはできない。
結局道徳とは、各人によって自発的に目指そうとされない限りは、決して実現されることのない目標なのだ。
*2 カント「徳論の形而上学的定礎」『人倫の形而上学』246頁。




