現代論理学と多義性の問題
正直なところ、功利主義と義務論の対立がいまだに調停されていないことには、驚きを禁じえない。この事実だけでも、現代哲学の成果の乏しさについて、わたしが失望を覚えるには十分すぎた。
いったいこの200年以上もの間、哲学者たちはなにをやってきたのだろうか。第三の選択肢として名乗り出る徳倫理学者たちにいたっては、ほかの二つの理論を調停するどころか、「倫理学上の反理論主義」を標榜して、規範理論というもの自体を拒否している(*1)ということにも、問題の根深さを感じさせられる。
*1 ロザリンド・ハーストハウス「規範的な徳倫理学」[1996年]大庭健編『現代倫理学基本論文集Ⅲ』勁草書房、2021年、246頁。
わたしのみたところ、現代哲学が抱えている問題点は、主に三つある。
一つには現代論理学のあり方からくる誤謬論の軽視、ひいては言葉のもつ多義性への注意の乏しさがあり、二つ目は倫理学の基礎としての認識論を軽視していること、最後に時期尚早な哲学の分業化だ。
一つ目の誤謬論の軽視からみてみよう。
もし議論に強くなりたいだとか、ロジカル・シンキングができるようになりたいといった動機で、現代論理学の教科書を読み通す人がいたとしたら、おそらくかなりの確率で失望を覚えることになるだろう。
それもそのはずで、議論とは意見の一致を目指すものなのだから、そうした目的に貢献できるのは、現代論理学からは抜け落ちている分野、つまりなぜ意見の不一致が生まれるのか、その原因となる誤謬を研究する分野のはずだからだ。
諸科学の多くは、中世においては絶対的な権威だったアリストテレスを乗り越えることによって、近代化を果たした。近代以降の科学のめざましい発展については、ご存じの通りだ。
論理学においても、カントによって「この学はまた今日にいたるまで一歩も進歩することができず、したがってどうみても完結し完成しているように思われる」(*2)と、その完成度の高さが評価されていたアリストテレス論理学を、フレーゲが名辞ではなく命題を基本単位にするというアイデアによって乗り越え、現代論理学の基礎が築かれることになった。
*2 カント『純粋理性批判』(熊野訳)10頁(BVIII)。
ただし科学とは違って、現代の論理学がアリストテレスの頃と比べてあきらかに発展していると、果たして本当に手放しで評していいものかどうか、わたしには少々疑問に思える。もしかするとアリストテレスを乗り越えようとしたときに、捨ててはいけないものまで誤って捨ててしまったのではないか。
現代の諸科学はアリストテレスをうまく乗り越えたように思われるが、論理学だけは今一度、アリストテレスにまで立ち戻る必要があるのではないか。
ではアリストテレスによって築かれた伝統的論理学にはあっても、現代論理学にはないものとはなにか。近代までは弁証論と呼ばれていた分野――虚偽(誤謬と詭弁)に関する研究だ。
現代の論理学の教科書においても、誤謬や詭弁について記述されることはあるだろう。だがその場合でも誤謬や詭弁についてのいくつかの分類が紹介されるくらいで、それらの本質に関する研究が、アリストテレス以降で進んでいるようにはみえない。だが論理の誤りがどのような原因によって生じるものかの研究をすることなしに、現にさまざまな見解をもっている人たちの意見を一致させることなどは、決してかなわないだろう。
誤謬と詭弁の本質とはなにか。すべての虚偽ではないにせよ、少なくともその一部に共通するものとしてわたしが思うに、すでに説明した概念の混同および取り違えを、その要因としていることにあるに違いない。これらは概念の意味(内容)を考慮しなければ気づかれないため、数学的方法を模倣した分析では不十分だ。
一般論理学は伝統的に真理の道具(オルガノン)とみなされてきたが、カントによれば論理学は判断の基準(カノン)でしかなく、道具と思い込まれることで仮象(錯覚)の元となってきた(*3)。『純粋理性批判』邦訳者の中山元によれば「オルガノン(道具)は、……カンナやノコギリのようなもの……カノン(基準)は……カンナやノコギリを使うための物差しのようなものである。……理性のオルガノンは、理性をさまざまな場所で活用して、認識を拡張するために役立つが、理性のカノンは、そのために理性が正しく利用されるべき基準となる」(*4)
認識の内容は認識を拡張することで増えていくが、論理学はそのような目的に役立つものではない。論理的な判断基準は「必要条件であり、だからまたいっさいの真理の消極的な条件」(*5)なので、なるべく基準に沿っているべきだとしても、基準に沿っていれば正しさへの十分な保証が得られるわけでもない。
形式的な論理だけではなく、内容の正しさもまた、正しい思考には必要とされる。だからもし内容を捨象した論理形式だけを恣意的な目的のための(基準ではなく)道具として濫用するなら、たとえ形式的には正しくとも、誤った内容をそれっぽくみせかけるだけの、詭弁を生み出すことにつながるだろう。
したがって誤謬と詭弁の本質を知るには、概念の意味がどのようにつくられるのかを知る必要がある。そのため第一〇章で人の認識方法を論じる際には、かなり低次のレベルからの認識を考察しなければならず、分量がかなり多くなってしまった。
一般論理学では、語の意味内容を捨象した形式だけが論じられる(意味を表す語は多くの場合、アルファベットのような意味をもたない記号に置き換えられる)。だが誤謬を防ぐためには、そうした内容がどのようにつくり上げられるのかを論じる必要があるのだ。
*3 カント『純粋理性批判』(熊野訳)108~109頁(A61f., B85f.)。
*4 カント著、中山元訳『純粋理性批判1』光文社古典新訳文庫、2010年、252頁(邦訳者の中山による訳注)。
*5 カント『純粋理性批判』(熊野訳)107頁(A59f., B84)。
すでに述べたように概念の混同や取り違えは多くの場合、一つの語に複数の意味をもたせられること、つまり語の多義性から生じる。だが現代の学者はなぜか、多義性への注意があきらかに足りていないように思える。このことは第九章で論じるように、現代に入っても自由意志論争がいっさい多義性に言及されることなく、著名な哲学者たちによって繰り広げられ、いまだ解決のめどが立っていないということからもわかる。
それに対してアリストテレスは『トポス論』において、推論を扱うための四つの道具の一つとして、多義的な語の意味を区別することを挙げ(*6)、たびたび多義性について論じている。実際に彼は「必然」(*7)や「知っている」(*8)「同じ」(*9)など、さまざまな語の意味を慎重に区別していて、多義性への意識がとても高かったことがわかる。
アリストテレスが直接的に誤謬を論じた『ソフィスト的論駁について』では、誤謬は言語表現にもとづくものとそうでないものに分けられ(*10)、前者の中心にあるのが同名意義や同文意義といった、多義的な語の意味が取り違えられることからくるものだった。
*6 アリストテレス『アリストテレス全集3 トポス論 ソフィスト的論駁について』岩波書店、2014年、48頁(『トポス論』第1巻第13章)。
*7 アリストテレス『アリストテレス全集2 分析論前書 分析論後書』岩波書店、2014年、490頁(『分析論後書』第2巻第11章)。
*8 同、284~286頁(『分析論前書』第2巻第21章)。
*9 アリストテレス『アリストテレス全集3』34~36頁(『トポス論』第1巻第7章)。
*10 同、375頁(『ソフィスト的論駁について』第4章)。
アリストテレス以後、フレーゲ以前に展開されていた近代までの論理学は、「伝統的論理学」と呼ばれる。ただし「ここで『伝統的論理学』と呼んでいるものは、アリストテレスが『分析論前書』の中で体系化した論理学と必ずしも一致しない」(*11)とされている。
それでも17世紀に書かれたアルノーらによる論理学の教科書『ポール・ロワイヤル論理学』では、語の多義性について度々注意を促し、「媒名辞を、最初の二命題において二つの異なった意味にとることが、妥当でない議論の最も通常の欠陥である」(*12)こと(この指摘が今でも非常に重要なことは、本稿の第九章以下で示す)、言葉の定義によって「無数の議論が解決される」(*13)ことなどが、正しく指摘されている。
この教科書自体は当時の主流派ではなく「必ずしも伝統的な論理学の入門書ではない」(*14)。「従来のアリストテレス・スコラの論理学にはやや批判的」(*15)な内容ではあるのだが、わたしが読んだところでは批判的なのは主に『分析論前書』に書かれたような形式論理にこだわることの不毛さに対してであり、多義性への問題意識はアリストテレスと完全に共有されている。
*11 飯田隆『言語哲学大全Ⅰ 論理と言語 増補改訂版』勁草書房、1987年/2022年、64頁(注22)。
*12 アントワーヌ・アルノー、ピエール・ニコル著、山田弘明・小沢明也訳『ポール・ロワイヤル論理学』法政大学出版局、2021年[初版1662年/第5版1683年]、426頁。
*13 同、406頁。
*14 同、465頁(訳者解説)。
*15 同。
ところが現代論理学は主に、アルノーらによって「あまり役立たない」(*16)「些末でほとんど実用にならない」(*17)とされた『分析論前書』で扱われた範囲だけを対象領域にしていて、アリストテレスらがこれほど丁寧に論じ、重視していた多義性の問題を扱うことができない。これはあきらかに現代論理学のもつ欠陥の一つといえるだろう。
*16 命題の換位について。同、215頁。
*17 三段論法の規則等について。同、231頁。