道徳と通念 ~概念の混同とダーウィニズム~
体系を検証するための事実の一種として、道徳感覚を挙げた。これはいわゆる常識と呼ばれることもある。
なぜ常識が道徳理論の蓋然性を高める事実として使えるのかというと、進化心理学などで考えられているように、道徳を人間が進化の過程で身につけてきた行動傾向だと仮定しているからだ。われわれ人間がみなそうした傾向が組み込まれた遺伝子を受け継いでいるならば、道徳とはなにかという問いへの答えはある程度は通念的なものとなるだろうし、少なくとも、考えてみれば当たり前と思えるような考え方である必要がある。
こうした通念を体系化するという試みは、実のところ、これまであまりされてこなかった。当てはまるのはせいぜい、アリストテレスがおこなった講義集である『ニコマコス倫理学』くらいだろうが、当時の社会は、現代とはその前提条件が著しく異なっていた。時代によって人びとの価値観は変わるのだからその時々で正しいことは変わるのだという考え方には与しないが、それでもすでに述べたように、どのような思考も前提から結論を導き出す過程であることには変わりがないので、どれだけ正しい思考をおこなおうとも、前提が変われば結論も変わることは避けられない。ならばきっと、現代社会に合わせた通念の体系化というものが、この時代にも新しく必要とされているに違いない。
ただし必ずしも通念的だからといって、それが正しいとは限らない。なぜなら人間はしばしば、異なる概念を混同することがあるからだ。
ヒュームが「二つの観念の間に密接な関係があるときは常に、精神が両者を取り違え、すべての論述と推論において一方を他方として使用する傾向が、きわめて大きい」(*1)と指摘したように、複数概念の間に因果や包含、類似などの関係が見いだされると、それらの異なる概念が混同され、それらの異なる意味があたかも同じ意味であるかのような見かけを装い、人びとの意思疎通を阻害したり、誤解を生じさせるということが頻繁に起こる。これが誤謬のもとになるわけだが、どうもその危険性は過小評価されているようで、著名な哲学者や科学者であっても、十分に注意されていないように思えることが多い。ときには自身に都合のいい結論に持っていくため、故意にこうした混同をおこない、詭弁を呈しているだけのように見える者もいる。
*1 ヒューム著、木曾好能訳『人間本性論 第1巻 知性について』法政大学出版局、1995年(初版)/2019年(普及版)[1739年]、76~77頁(T 1.2.5.19; SBN 60)。
しばしば一つの言葉が複数の意味を持っていることからもわかるように、言葉というものは必ずしも概念と一対一で対応関係にあるようなものではなく、あくまで概念に近似させて代替する記号にすぎない。そのためある概念を他者に伝えようとして意味が近いと思われる言葉を発したとしても、受取手が異なる意味に取り違える危険がつねに伴う。
間違った意味で捉えられた言葉は、また別の人に伝えられ、その人ははじめから(もともととは異なるという意味で)間違った意味の言葉を形式的に受け入れ、誤った概念を前提にして物事を考えるようになる。
このようにして、たとえ故意でないにせよ、概念の混同と、混同した概念の拡散というものは、時間が経てば経つほどその機会が増えていく。その結果として、新しい考え方よりも古い考え方の方が、正しく物事を認識できているというケースが生じる。科学とは違って哲学が、必ずしも古代や近代より、現代の方が優れているとは言えない理由がここにある。
本稿では混同されがちな異なる概念を分離し、それぞれが明確に区別できるよう定義し直そうと、それなりに気を配ったつもりだ。読者諸賢にも、異なる概念を安易に、あたかも同一であるかのように扱わないよう、注意して読み進めてほしいと願っている。
たとえば利益と快不快の概念を混同することで、特に第七章以降の議論が理解しづらくなるおそれがある(「利益」という言葉は第一章で、「快不快」は第七章で定義している)。わたし(著者)が使っている言葉になじみがないからといって、自分(読者)の知っている別の言葉に読み替えようとする際にも、概念を取り違える危険性がある。その場合は、本当にそれらの語が同一の概念を意味しているのか、慎重になって判断してほしい。
現代の道徳における種々の問題を解くにあたっては、問題となっている道徳概念が異なる概念を混同しているのではないかと疑うのは、一つの手段として有効だろう。実際、本稿では共感や自由、責任といった概念の理解しづらさを、この方法で明快なものに解きほぐしている。
特に第九章では、自由意志という語の多義性が責任概念についての誤謬を引き起こし、自由意志肯定論者と決定論者との間で繰り広げられている、まったく見当違いな争いにつながっていることを詳述している。そこでは論理を商売道具としていて、一般の人よりも論理に詳しいはずの哲学者たちでさえ、概念の混同と取り違えにいともたやすく翻弄されているさまがよくわかるだろう。もっとも、通常の論理学で扱われるのはその形式であるため、その概念そのもの、つまり意味に関する誤りには、そうした論理形式では気づけないのだが。
道徳は人類の生存繁殖率を高めることによって遺伝されてきたというダーウィン的仮定と、概念はしばしば混同されるという着眼は、本稿全体を通して終始強力な武器になる。そしてこれらの原則から、道徳についての考え方は常識的なものだが、常識的だからといって正しいとは限らないということが導かれる。