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道徳の意味づけ  作者: 弾泥
第二章 道徳の範囲を意味づける
23/151

超義務(スーパーエロゲイション)

 誰かの主観的目的に反した行為は客観的目的に反するというのは、その行為がみずからの主観的目的に反する場合も含まれる。

 そのため過度の自己犠牲はむしろ、不道徳な行為になる可能性がある。会社への忠誠心から(一方的に利用されているだけであることにうすうす気づきながらも)過重労働で身体を壊したり、最悪の場合は過労自殺に至るケースなどが典型だろう。自発的にせよ、他者から要求されたにせよ、いくら(会社の)客観的目的のためだと言われたとしても、その行為がみずからの主観的目的に反する行為であるならば、自身のことをその守備範囲から外した客観的目的を守る必要はない。もちろんそれ以外の方法がない状態にまで追い込まれたような場合には、その責任は追い込んだ側にあるけれども。


 スーパーエロゲイションと呼ばれるものがある。

 哲学者の加藤尚武による説明では「義務を超える自己犠牲」「責務以上の行為」などと訳されるが、定訳はない。ナチスの収容所で死刑にされそうになった人の身代わりを申し出たコルベ神父の行為が典型的で、そのような自己犠牲を他人に強制すべきではないが、道徳的には称賛されるという(*1)。


*1 加藤尚武『現代倫理学入門』149頁。


 だが冷静に考えてみると、本当に道徳的に称賛されるべきなのかは疑わしい。

 たしかにコルベ神父の行為は、道徳的に見える。しかしそれは、<コルベ神父以外の人>にとっては、でしかない。本人以外の人にとってはたしかに、みずからの命を投げ捨ててまで誰かを助けてくれるような人の存在は、環境の安全に資するものであって、非常にありがたいものであることは間違いないだろう。

 しかしその環境とは、あくまで犠牲になった本人を除いた環境だということが忘れられている。コルベ神父が促進した客観的目的の道徳範囲には、コルベ神父本人は含まれていないのだ。


 なぜこのようなことが起こるのだろうか。

 おそらく本人の中では、手段の(最終)目的化が起こっている。本来は主観的目的のための手段であるはずの客観的目的なのに、最終目的であるはずのみずからの命を、客観的目的のための手段としてしまっている。ここでは目的と手段が逆転しているのだ。

 しかし肝心の本人はその行為によって命を落としているため、本人を含めた道徳範囲では客観的目的が促進されていないということには誰も気づかず、残された人びとの間では称賛すべき行為として扱われることになる。なぜ手段の目的化という現象が生じるのかについては、第八章で考察する。


 もちろんコルベ神父の行為によって、社会上のリスクが増えたわけではない。というのも、あくまで死刑にされそうになった人の身代わりになったのであって、リスクの対象が変わっただけでしかないからだ。

 そのためその行為が悪であるとまではいえない。極限状態でおこなわれたことでもあるし、もしかするとこの行為が危害を加えようとしていた人たちの心を動かす奇跡を引き起こす可能性も否定できないだろうから、まったく無意味と言い切ることもできない。もちろん身代わりに助けられた人にしても、その主観的目的は必然的目的なのだから、助けを拒否しなかったからといっていかなる責任も負うことはない。


 ここでわたしが主張したいのはあくまで、スーパーエロゲイションが称賛されるべきだとは思わないというだけの話だ。

 なぜなら称賛とは、他者の行為に対しての報酬とすることで、特定の道徳行為を継続したり、増加させる動機づけを与えようとするものだからだ。本人以外の人に対しても、当該行為が称賛されているのを観察することによって、同様の行為をする動機づけとなりうる効果をもつ。

 本人が亡くなっているのに称賛するということは、どちらかといえば後者の意味合いが強いのかもしれない。つまりその称賛にもし意味があるとするなら、本人以外の人に同様の行為をするよう求める効果が期待されていると考えられる。ちなみに前章で霊魂の不滅を否定しているため、死者への事後的な報酬という考え方をするわけにはいかないし、そう考えることにはなんの意味もない。

 だが命を投げ出すような行為を他者に求める権利など、誰にもないはずだ(なぜならその人を道徳範囲から外していることになるため)。それに称賛されたいという理由だけでみずからの命を捨てる行為をしようとする人など、そうめったにいるものではないし、いるべきでもない(コルベ神父にとっての宗教的信念のように、別の理由が合わさることでありうる行為にはなるが)。

 義務を越えた義務はもはや、義務ではないのだ。

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