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道徳の意味づけ  作者: 弾泥
序章 倫理学を意味づける
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道徳を客観的な理論にするための条件

 客観的になりうる基準さえ見つかれば、道徳を巡る問題はすべて解消する。そこで問われるのが、どのような条件を満たせば、道徳に関する知識が客観的なものになるのかということだ。


 なにが正しいのかを考える前に、どうなれば正しいと言っていいのかを考えなければならない。なのでまずは、カントが理性のことを「悟性の諸規則を原理のもとに統一する能力」(*1)と言っているのをヒントに、第一章にて原理を設定することにした。

 原理は数学における公理のようなもので、それ自体は証明の対象にならない。「理性は推論にあって、きわめて多様な悟性の認識をごく少数の原理(普遍的条件)へともたらし、そのことによって悟性の認識に最高次の統一を与えようとする」(*2)のであり、そのために使用される理念を、カントは「虚焦点」(*3)にたとえている。つまりそれ自体はこの世界に実在するものではないが、この世界に存在するさまざまなものを原理と関係づけていくことで、知識が体系化される。道徳に関してこのような体系化した知識が手に入れば、その場その場の環境にたやすく影響されるような感覚に頼らずとも、理性によって一貫性のある道徳判断が可能となるはずだ。


*1 カント著、熊野純彦訳『純粋理性批判』作品社、2012年[1781年、1787年]、348頁(A302, B359)。

*2 同、350頁(A305, B361)。

*3 同、640頁(A644, B672)。


 さてどのような思考であっても、そこには必ず前提というものがある。そして論理とは前提から結論を導き出す過程のことを言うので、前提の正しさを直接論理によってたしかめることはできない。なぜならもしその前提を論理的に導き出すような推論をしたとしても、その推論にはさらなる前提が用いられているからだ。その場合その前提を導き出す論理の正しさは、そのさらなる前提の正しさに依存する。

 したがって論理的な正しさは前提の正しさまでは保証してくれず、どのような前提を用いるかという判断には、どうしても恣意性が混じることになる。そのため前提が間違っていれば、いくら論理的に正しい推論をしようとも、結論の正しさはいつまで経っても保証されない。ではどのようにすれば、客観的に正しいと認められる答えを得られるのだろうか。


 論理だけでは不足があるなら、現実(事実)と比較すればいい。進化論や万有引力の法則について考えよう。進化論や万有引力の法則というものは、なんらかの物質としてこの世界に存在するものではないため、目で見たり手で触れたりすることはできない。そのため、その存在を直接証明することができない。ではなぜ科学の世界では、多くの人がそうした考え方を正しいと信じているのだろうか。

 それはそうした考え方から予測される帰結が、現実の事象、たとえば進化論であれば、動植物の形態や行動の傾向、それらによって階層的に分類できる類縁関係や、地理的分布の関係、既知の遺伝法則など、あるいは万有引力の法則であれば、惑星の動きや地上と宇宙における物体の動き、既知の物理法則といった、さまざまな事実に整合的な説明が与えられることで、体系全体の一貫性が示され、認識の蓋然性(確率)を高めているからだ。決してなんらかの特定の事実が、単独でそれらの原理を証明しているというわけではない。


 客観的な道徳基準をつくる際にも、同様の方法によるしかない。つまりまずは原理を立て、その原理から導かれるさまざまな原則が、人びとの道徳感覚であったり、さまざまな学者による既存の理論、認知科学実験の結果と整合的であることを示す。そうして整合的な事実が多くなればなるほど、その基準の信頼性は高まるはずだ。

 ここで挙げた集めるべき事実それ自体は、正直にいえば証拠としては心許ない。道徳感覚というものは曖昧なものだし、ほかの学者の理論にしても、その学者がそう言っているから正しいといえるようなものではないだろう。道徳は、人びとの判断基準になる。だが心理学実験をいくら積み重ねたところで、そこからわかるのはあくまで行動という結果であって、原因である判断は決して目に見えるものとして現れてはくれない。


 なにかが証拠になるというとき、なぜそれが証拠になるのかと考えたことがあるだろうか。たとえばある殺人事件の証拠として、使用された凶器が見つかったとしよう。刃物や鈍器といった凶器は、それ単体として証拠になるわけではない。発見された場所が想定される事件状況と一致するだとか、付着している指紋や血痕が被疑者や被害者のそれと一致するというような、それ以外のものとの関係があってはじめて、証拠として認められる。その凶器が単体で、直接的に被疑者が犯人であることを証明しているわけではなくて、その凶器を含めたさまざまなものの関係が全体として、有罪の証明をなす。

 このことは道徳理論においても同様で、重要なのは、本稿で挙げる諸事実は決して、それ自体を直接的な証拠としているわけではなく、整合的な事実がこれだけ多くあるということ、体系全体の整合性を根拠にしているということだ。特定の原理によって説明できる事実が多くなればなるほど、その原理のたしからしさも高まっていくに違いない。


 裁判において特定のものがたんに証拠として扱われることがあるのは、その背景にある事件に関係する前提情報が、関係者の間で共有されているからでしかない。対して道徳については、その前提が人びとの間で共有されているとは言いがたい。道徳に関係する意見がなかなか一致しないのは、そのあたりも理由として大きいのではないだろうか。

 そのため道徳にまつわる主張には、なんらかの事実を端的に証拠として提出するということができない。その前提条件を一つひとつ確認していき、特定の帰結を導き出すもととなる根拠を共有することでしか、まともに意見の一致を目指す論証などできやしないのだ。


 たしかにこの方法では、いくら多くの事実を集めたところで、最初に立てた原理の正しさを完全に証明することができない。原理は最上級の法則のことだが、法則の完全な証明とは、この世界に反証となる事実が存在しないことを証明するということであり、一種の悪魔の証明といえる。この世界の古今東西、なおかつ未来に渡るすべての事実を集めるなど到底不可能なのだから、今わかっていることに矛盾がないならば、それで満足するしかないだろう。これは妥協ではなく、人間の能力の有限性からくる、現実的な制限だ。

 道徳法則は人間の日々の生活にかかわるものだが、そうした人間の生活に影響を与える要素は、無数に存在する。そのため再現性のため前提条件(実験環境)をそろえる必要のある実験や、特殊な環境への実地研究をいくら積み重ねても、おのずと限界がある。

 客観性のある知識には経験との比較が必要だが、道徳が日常の指針であること、すぐ後で述べるように自然選択によって遺伝されてきた傾向だとするのなら、道徳的知識に関しては、それほど特殊な経験は必要とされない。

 よって日常的な感覚や経験に矛盾がないことさえ示せれば、それで十分だと考える。もしそのあとに反証となるような事実が見つかったとしても、そのときに修正したらいいだけなのだから。

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