倫理学が科学ではない理由
倫理学は一般に、哲学の一分野とされている。学問の多くは哲学に由来し、たとえば物理学はもともと自然哲学と呼ばれていたが、それが後に哲学から分離独立する形で、自然科学と呼ばれるようになった。現在でも哲学と呼ばれているものはある意味、科学になり損ねた問題を扱う分野といっていいかもしれない。
倫理学が科学と呼ばれないことには、明確な理由がある。人文科学における文献調査や史料批判、社会科学における実地調査、自然科学における実験や観察にあたるような、確固とした方法論が確立できていないためだ。一応は道徳心理学のように、実験や観察を用いて道徳というものを解明しようとする分野もあるにはあるものの、そこからわかるのは、人びとが現にどのように道徳判断しているのかという記述だけであって、どれだけ人びとを観察しようとも、人間はどのように判断すべきなのかという規範は一向に見えてこない。実験や観察、あるいは実地調査で得られる情報はすでに起こったことに関するものだが、道徳はまだ起こっていないことに関する判断基準なのだから、ある意味では当たり前のことといえるだろう。
確固とした方法論が見つかっていないということから、倫理学では支配的な通説というものがなく、立場がいくつかに分かれている。主流な立場としては、幸福の総量を最大化しようとする功利主義、道徳を無条件的な義務として捉える義務論、美徳に沿った生き方そのものを目指そうとする徳倫理学がある。
しかしいずれの考え方にも、なんらかの欠陥がある。
功利主義は幸福を量として捉えるために、そもそも幸福をどのように量として扱うのかという計算方法をまず考えなくてはならないし、(功利主義への誤解にもとづくものとはいえ)多数の幸せのために少数者の犠牲を正当化するのではないかという懸念を抱く人もいる。人びとの幸福を最大化しようという目的には一定の説得力があるものの、そのための手段をどのようにして決めるのかという点での曖昧さが否めない。
義務論は無条件的であるために形式化しやすく、無条件的であるがゆえになにが義務なのかをどのようにして決めるのか、やはり人びとで意見を一致させる方法が別に必要となる。
徳倫理学にしても、そもそもなにを美徳とするかは共同体ごとに異なるため、異なる文化圏の人どうしでの交流には使えない。共同体内部でも価値観の多様化が進んできていることを考えても、徳の観念に説得力を持たせようとするのは、現実的と言えないだろう。
とはいえ、それぞれの考え方には人びとの主観的感覚に適合する部分もあり、まるっきり間違っているというわけにもいかない。しかしどれも、人間の持っている道徳感覚の一面しか捉えられていない。つまり、功利主義も義務論も徳倫理学も、一部は正しく、それ以外の部分は間違っている。
倫理学として本当に望まれている理論とは、それぞれの考え方の正しい部分だけが抽出された一貫性のある統一理論であるのはあきらかだが、太古の昔からある学問であるにもかかわらず、いまだにそのような理論は見つかっていない。実際、功利主義にしろ義務論にしろ、現代の学者が200年以上も前につくられた理論的な立場に分かれて議論しているということ自体、倫理学という学問が、決して順調に前進しているわけではないということを示している。
この二つの立場の対立が一向に解決のめどが立たないということで、新たな立場として持ち出されてきたのが、2300年前のアリストテレスに端を発する徳倫理学だった。だが、共同体によって内容の変わる美徳を道徳の基準にしようとするのは、すべての人に適用できる道徳基準の探求を諦めた末の、ある意味では妥協的な考え方のようにも思える。現に人びとにそういう感覚があるのだから、それでいいじゃないか、というわけだ。ある程度同質な社会で、同じ文化圏の人とだけ付き合うなら、それでもいいだろう。だが、グローバル化が進んだ世界でわれわれは、異なる文化圏の人とも同じ世界で生きている。そうなると、どこかで必ず問題が生じるはずだ。
同じように、客観的な道徳規準が一向に見つからないということから、理屈が通る基準の存在を否定し、そのように感じるから正しいのだとするような、直観主義や感情主義といった考え方もある。だが、理屈が通らないのであれば、人を説得することはできない。現にあらゆる人が道徳的に行動しているのであればそこに理屈はいらないかもしれないが、そうであればそもそも人の行動に善い悪いという価値判断が働く意味もないのだから、道徳という概念自体がすでに廃れているに違いない。しかし実際には、道徳的に行動しない人が存在するから善悪という考え方があり、それは道徳的でない人を道徳的にするための概念なわけだが、ただそういう感情があると主張するだけでは、その目的を達することはできない。どのような感情にも、理由はある。そうした理由こそが、人びとで意見を一致させる鍵となるに違いないのだ。