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彼女の心が思うもの

 最近エリカの様子がおかしい。

 己の妻をおかしい呼ばわりするのはどうかとも思うが、彼女がおかしいのは周知の事なのでそれは問題ない。

 のだがここ数日、具体的に言うなら俺の職場に差し入れをしに来た後からか。いつもの奇行とは一味違う挙動不審さを見せているのだ。

 何かあったのかと本人に聞こうとすれば適当にはぐらかされ、時には顔を紅潮させ部屋に閉じこもってしまう。熱でもあるのかと体調を問えばそれは違うと明確な否定が返されその点は安心するのだが、一向に会話をしようという気配はない。

 仕方なしと変わりに執事へ問えば、


「それが、奥様は私やメイドにも不可解な態度を取られておりまして、伺っても『何でもない』としかお答えいただけないのです」


 そう無念さを滲ませながらに言われてはそれ以上追及することもできない。

 エリカが職場を整頓してくれたおかげで仕事が捗り、帰宅も随分早くなった。だというのにそれが何の意味もなさないとは何の因果であろうか。


(あの日、エリカは俺に話をしたいと言ってくれたが、それが重荷になっているのだろうか?)


 考えられる原因はそれくらいしか思い当たらない。

 俺としては彼女の嫌がることを無理強いする気はなく気が変わって言いたくなくなったのならそれでも構わないのだが、それを伝える事すらままならない。


 ――そんな状態が続きながら今日も今日とて仕事である。


「おはようございます、マクスウェル様」

「おはようございます」


 流れ作業のように挨拶を交わしながら書類を受け取る日課をこなし、自分の席へと体を納めれば自然に溜め息が漏れる。


「あー……、今日もですかね」

「今日も、だな」

「何でしょう?」


 何やらひそひそと話す周囲の声に視線を送れば「いえ、何でも!」と慌てて否定の言葉を返してくる。このやり取りももう数日続いているものだ。やれやれと改めて息を吐く。

 周囲を見渡してみると壁の高い位置にある窓から僅かに日が差し込み、ほんのりと穏やかな空気が漂っている。


(以前からは考えられない環境だな)


 明らかに居心地の良くなった仕事場をぼんやり眺めていると視界に若い男が割って入ってくる。


「マクスウェル様、こちらの書類ご確認と署名おねがいします!」

「お預かりします」

「いやぁ、それにしてもこう整頓されてると気分がいいですよね! 隠れた窓も見える様になって随分明るくなって!」


 そう言いながら紙束を差し出すシュクルの顔は、周囲の空気同様に何とも能天気なものだ。


「気分だけじゃなくて仕事の能率も大分上がったんですよ! 歩きやすいし躓かないし、何より欲しい書類がすぐに見つかるしで。こんなに変わるものだとは、正直片付けを舐めてましたよ」


 目の前に立ったまま得意満面に語り続けるが、今すぐ書類確認に取り掛かるつもりはないのだが。


「それもこれも奥様のお陰ですね! また是非呼んで下さ――」

「無駄口を叩く暇があるのなら手を動かしてください」


 シュクルの言葉を遮って出た声は意図せずいつもより数段低く、周囲の穏やかだった空気と目の前の男の表情が瞬間にして凍り付く。そのまますごすごと後ずさっていくので黙って見送る。


「馬鹿かお前は。燃え盛る炎に油を注いでどうする」

「俺はただ助け舟をだそうかなって!」

「とんだ泥船~」


 オーエンとリンネルに小突かれながらシュクルが情けない声をあげているが、その内容にふと疑問を抱く。


「助け舟とはどういう意味ですか?」


 俺が尋ねると再び辺りは静まり返り、周囲の視線は俺へと向いた後にシュクルへと集中する。


「あの、いやっ、えーと。マクスウェル様、奥様と喧嘩中のようなので仲直りのきっかけになればと……」

「喧嘩はしていませんが」

「あ、そうなんですか? 最近機嫌が悪いのでてっきり奥様に相手にされてないのかと思ってました!」


 俺の言葉に意気揚々と答えた瞬間、シュクルの脳天に氷塊が直撃する。「痛ってぇ!し、冷たい!」と頭を抱え蹲る彼に、氷塊同様の冷ややかな視線を送るオーエンの仕業だろう。


「喧嘩はしていません……が、どうにも避けられている感はあります。何か妙案がありましたら是非伺いたいものですが」


 無駄に賑やかな彼らを横目で見ながらも素直な気持ちを吐露すれば、今度こそ俺へと視線が集中する。


「え……原因、分かってないんですか?」

「それが分からないから頭を悩ませているんですよ」

「あー、それはまあなんというか、どうしましょう?」


 役に立たん奴め。あれだけの大言壮語を吐いておいて無策とは、少しでも期待したのが間違いだったようだ。

 間抜け面を晒すシュクルに見切りをつけ、いい加減仕事をしようと手を動かし始める。何の解決にもならないことは分かっているが、仕事に没頭すれば少しは気が紛れるというものだ。


「と、とりあえず謝ってみるのはどうでしょうか」

「何に対しての謝罪か分からなければ意味がないでしょう」

「ソウデスヨネ」


 往生際悪く食い下がってくるシュクルをひと睨みしながら机の端へと手を伸ばすと、想定とは違う冷たい感触が指へとまとわりつく。


「あー」

「あれって、ヒース商会謹製の特殊インクよね? 魔力ののりがよくて結構いいお値段するやつ~」

「だな、マクスウェル様愛用の。たった今空になったけどな」


 かたん、と乾いた音を立て、盛大に指を突っ込んだインク瓶が倒れれば無残にも机の上を黒く染め上げていく。広がる染みを呆然と見つめながらも頭の中では書類が無事なことに安堵をし、案外冷静なものだなと他人事のように感心をする。


(いや、これが冷静なものか。ただの思考放棄だろう)


 漆黒の指先から滴るインクを瞳に映し、ふと我に返る。


「……少し休憩をいただきます。ついでに物品の補充もしてまいります」

「どうぞお気をつけて」

 

 汚れた机もそのままに、ふらり外へとその身を向けた。



 上司の去ったその部屋ではざわざわと部下たちのさざめきが起こる。


「本当に原因分かってないんですかね? 王女殿下と抱き合ってるとこ、奥様にがっつり見られたってのに」

「抱き合ってはいなかったろ、引っ付いてただけで」

「同じですよ!」


 男たちの言い合いの中に女性陣の声も混じる。


「セシルちゃん的に、マクスウェル様はあのままでいいの~?」

「いいんじゃないですか? 面白いですし」

「あれを面白いと言ってのけるとか、さすがはあの奥様の妹ね……」


 リンネルのぼやきに一同が静かに頷いた。


 ◇ ◇ ◇


(とりあえず新しいインクを買って、戻る前に少し頭を冷やそう)


 思っているよりも随分と俺は動揺しているらしい。エリカとは幾度となく衝突しているがこれほどまでに狼狽えるのは初めての事だ。

 それ程俺の中で彼女の存在が大きくなっているという事だろうか? それ自体は悪い事ではないのだが、その度に傷が深くなっていくのはたまったものではない。


(できる事なら衝突でなく歩み寄りがしたいものだが)


 そう溜息を漏らしながら城門を抜け街を目指す。

 街を歩くには魔術省のローブは少々目立つ。白いローブを羽織り直せばその魔道具の効果により周囲から認知されにくくなる。

 そうして乗り合いの馬車に飛び乗り揺られる事しばし、外郭の商業地区へ降り立つと目的の店へ足を踏み入れた。

 

「え、何で?」

「……それはこちらの台詞だ」


 踏み入った先で見たものは予想外の顔だった。

 腰掛けていた椅子から慌てて立ち上がり黒い瞳を丸くしながらこちらを見つめているのはまごうことなくエリカである。漆黒の髪を高い位置で一纏めにし揺らしながら、平民服にエプロンを纏った彼女の姿は初めて見るも随分としっくりくるものだった。


「魔術師の旦那、そいつはウチの店員のヘザーってやつでして。おいヘザー、いつまでもメシ食ってねぇで接客しろ接客ぅ」

「わ、分かってるわよ!」


 親密さを窺わせるやり取りに眉をしかめたくなるが今はぐっとこらえる。ここは商店の中であり、エリカも俺も身分を晒すわけにはいかない。

 あの商人はどうやら幻惑を無効化する魔道具を装備しているようで俺の正体には気付いている様子だが、わざわざ魔術師呼びしたのはこちらの事情を察してのものだろう。腹立たしいが気が回る。


「ええと。ヒース商会へようこそ! 本日は何をお求めですか?」


 戸惑いがちに笑顔を浮かべそう言うが完全に目が泳いでいる。それはここ最近の不調の延長なのかそれともこの予期せぬ遭遇のせいなのか。

 ぱちくりと瞳を瞬かせながらぺろっと舌を出すその仕草は家では見ることのない表情で、服装も相まってか非常に新鮮だ。貴族らしさはなくとも愛らしく、反射的に頬に熱が集まる。――違う、そんなことを考えている場合ではない。


「インクを」

「インクですね! 『黒』でいいかしら? 少々お待ち下さい、ギリアム――」


 とりあえずと本来の目的を告げれば食い気味に彼女が答え、くるりと踵を返す。


「倉庫の三番の棚ん中だ。取ってきな」

「はぁい」


 ぱたぱたと落ち着きなく、逃げる様に走り去ってしまう。

 そんなエリカを見送ると、カウンターの向こうで太々しく笑う店の主へと視線を向ける。


「どういう事だ、説明しろ」

「どうもこうも、見た通り言った通りでさぁ」


 しれッと答えるこのギリアムと言う男が非常に憎々しい。

 つまり俺の妻が偽名で店員をやっている、という事か。様子からして初めての事ではないのだろう。彼女の奇行には慣れたと油断していたが、流石にこれは頭が痛くなる思いだ。


「ま、周囲に身分が漏れちゃ不味いのは旦那も一緒だろ? ここはひとつ嬢ちゃんの息抜きに付き合ってやったらどうだい」

「息抜きだと?」

「深い意味はねぇよ」


 引っかかる言葉に反射的に敵意が向くが、ギリアムにそれを軽く受け流される。手をひらひらと見せる態度はあちらには敵意がない事を示しているのだろう。

 それにしても言葉にも態度にも一切の遠慮がない。この場の俺はあくまで一介の客でありこの男がここの主だから当然だが、こちらが強く出られないと知っての態度なのだからなお気に入らない。

 それでもここで喧嘩を売ることに意味はない。仕方なく勧められるままに椅子へと腰を落ち着けると、カウンターの上にある小さな箱状のものが目に留まる。


「これは?」

「ああ、くず入れでさぁ。ヘザーのヤツが紙切れでひょひょいと作っちまってね、そういうのを一体どこで覚えてくんだか」


 手のひら大の、ギリアムの言う通りに紙で作られたその蓋のない箱状の物を手に取りしげしげと見つめる。切ったり貼ったりしたような痕跡はなくどうやら紙を折って作られているようだ。折り目を返し解いてみれば、やがて一枚の長方形の紙となる。


(一枚の紙から箱を作るとは器用なものだな)


 折り目を見返し、元に戻そうと試みるもなかなかうまくいかない。どうやら決まった順があるようだ。

 悪戦苦闘しながら紙と対峙する中、頭に浮かぶのは以前にセシルが呟いた言葉だった。あれは――


「あー、壊しました?」


 手元に集中していた顔を上げると木箱を抱えたエリカが横から覗き込んでいる。


「すまない」

「すぐ直るから大丈夫ですよ。ほら!」


 荷物をテーブルへと置き、俺から紙を取り上げるとあっという間に箱が出来上がる。差し出されたそれを受け取れば、今度は彼女の視線が俺の手元へと集中する。


「あれ、指先汚れてます?」

「ああ、少しインクを零してな。それで補充に来た」


 インクはきっちり洗い流してきたはずだが恐らく魔力が残っているのだろう。指先と言うよりはその周辺の宙を見る彼女の瞳がそれを物語っている。


「旦那様でもそんなおっちょこちょいな所があるんですね。まだ少し汚れてますよ」


 ころころと笑いながら俺の手をぐいと引き、その小さな両手でぐにぐにと弄りだす。


(ああこの笑顔、久しぶりだ)


 思わず目を細め、温もりを手に感じながらされるがままに彼女を見つめていれば彼女もその視線に気付く。

 瞬間、その顔が朱に染まる。


「す、すみません……」

「いや……」


 慌てて離された手を惜しく感じながらも、自分の顔もつられて赤面するのが分かる。


「あー、二階の空き部屋使って構わねえから二人で茶でも飲んできたらどうだ。ヘザーは聞きてぇこともあんだろ? 商品は用意しとくからよ」


 ギリアムのそんな気怠そうな声にはっと我に返る。


「ではそうさせてもらおう」

「えっ⁉」


 俺の返答とは正反対にエリカが驚嘆の声を上げる。慌てて逃げ出そうとする行く手を塞ぐように立ち上がれば、彼女も観念したようでがっくりと項垂れる。

 店主の溜息に背を押されながら、渋々と案内をするエリカの後を追い階段を登る。溜息と共に漏れ出る「ったく見てらんねぇよ」といった店主の嘆きは俺たちの耳には届かなかった。

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