新しい朝、初めの一歩
窓から差し込む柔らかな朝日に微睡みながら、重たい瞼を持ち上げる。
見慣れない天井が視界に広がりまだ夢の中なのかと一瞬混乱するも、自分が昨日嫁入りしたことを思い出す。
(そうだったわ。……夢ならよかったのに)
柔らかなベッドから体を起こし立ち上がれば、体のあちこちが痛む。貧乏伯爵家の硬めのベッドに慣れ切った体には上質な寝具は逆に毒になるようだ。新たな発見である。
腕や腰を捩じり軽いストレッチをしながら周囲をぐるりと見渡してみる。華美な作りではないが上品さがそこかしこに見られる落ち着きのある部屋、どうやら客間のようだ。広い部屋には整えられた調度品類が並び、隅には伯爵家から持参した使い込まれた鞄に詰め込まれた自分の荷物たちが場違いな感じで積まれている。
朝日の差し込む大きな窓から外を望めば、新緑生い茂る木々とよく手入れされた庭、その奥に大きな屋敷が見え隠れしている。
(確かここは離れだと、昨夜公爵様が言ってたわね)
ならばあの屋敷が公爵家の本邸なのだろう。何はともあれ今日からここが私の住まいで、新たな生活がスタートするのだ。
それにしても、離れとはいえこの丁寧な扱いには若干の不審と不安を覚える。何しろ私は自分の評判の悪さを自覚している。
(別に社交界で男漁りをしていたわけじゃないけれど、傍から見たらそう思われるのは仕方ないわ)
私には目的があり、全てはそのための行動だ。誓って道徳に反するような行為はしていない。まあ貴族の規範については考慮してないのでそちらに反していることはあるようで、結果として悪徳令嬢なんて呼ばれ方をするようになってしまったのだが。人脈作りとはいえ、未婚の令嬢がほいほいと男性に声をかけるのはNGらしい。そのあたりは致し方ない。
であるにもかかわらず、この待遇。嫁入り前は倉庫なり屋根裏部屋なりに放り込まれることも覚悟していたというのに肩透かしを食らった気分である。いや、冷遇されたいわけではないからいいのだけれど。
うーむと唸りつつ、体の前で手を組みぐぐぐと腕を前に伸ばす。その後組んだ手を解き両腕を後ろに引けば、固まった背中が解れ軽くなる。肩こりに悩まされていた前世で良く行っていたストレッチだ。
何度か繰り返していると、左手に煌めくそれが目に入る。
――薬指にぴったりと収まる銀の光を纏った指輪。細身でストレートの形をしたシンプルなものだ。宝石の類はついていないが幾筋かの文様が彫り込んであり、細やかな光を閉じ込めたような繊細さを感じさせる。昨日の不機嫌かつ秀麗な男を思い起こさせる造りに思わず溜息が零れる。
(それにしても、よりにもよって指輪とは)
この世界、この国の貴族は婚姻の際に魔法印を刻んだ装身具を互いに身に着けるという決まりがある。この装身具の形状には決まりがなくネックレスでもイヤリングでも何でもいいのだが、公爵様が選んだのは指輪。日本人にとっては結婚の象徴ともいえる指輪。一体何の嫌がらせかと苦々しい表情で、悪びれもなく美しく輝くそれに再び視線を落とす。
……なぜ薬指にしてしまったのか。この指を選んだのは自分だ。結婚指輪なら左手の薬指よね、と迷いもなくこの指を差し出した昨日の自分をシバきたい。しかも厄介なことにこの婚姻の装身具は破婚の儀を教会で執り行わないと外せない。呪いのアイテムかな?
……ある意味そうなのかもしれない。破婚の儀をしなければ外せないという事はそう簡単に離婚もできないというわけで。
(公爵様であってもおいそれと嫁を捨てられないという事ね)
誰特にもならない指輪から目を逸らし、ストレッチを再開する。
腰に手を置き上体を後方にのけ反らせ、天井を追い越して背後を見れば逆さまの視界に若いメイドさんが映る。
いつの間にノックされたのか。開いた扉の向こう側で固まったまま、ぎょっとした表情をこちらに向けている。明らかに見てはいけないものを見てしまった表情だ。
「…………」
「…………」
しばし無言で見つめ合った後、なんともいたたまれないといった表情を浮かべてサッと目を逸らされるが、目を逸らしたいのはこっちである。どう見てももらい事故である。
よし、落ち着け私。
何事もなかったかのように上体を戻し、くるりと正面に向き直りにっこりと笑顔を浮かべてみる。第一印象は重要だ。
まあそれは盛大にしくじった模様なのでなんとか第二印象は大事にしたい。メイドさんの視線は変わらず泳いでいる。
「えっと、おはよう。何かご用かしら?」
笑顔のままに丁寧に語りかけてみるが、メイドさんの肩がびくりと揺れるばかりだ。そういう反応は傍からは苛めているようにしか見えないので勘弁して欲しいと願いつつ、待つことしばし。
「……あ、あの、朝のお支度を……」
ようやく消え入りそうな声でおずおずと申し出た言葉に軽く首をかしげる。が、すぐにああそうかと理解する。
形だけとはいえ私は公爵夫人なのだ。ならば当然世話をしてくれるメイドさんもいるわけで。
納得し、ふむ、と少し考えて言葉を返す。
「一人でできるので大丈夫よ」
「えっ……」
私の言葉に唖然とした表情を返す。
そんな顔をされても朝の身支度はずっと一人でやってきた。さすがに夜会の時などは伯爵家のメイドさんに手を借りることもあったが、前世の庶民感覚が染みついている私は基本自分のことは自分でする。貴族令嬢らしからぬとは理解しているがこればかりは譲れないのだ。
「……承知しました。それではお支度が済みましたら食堂へご案内いたしますので……」
引く気のない私の様子に怪訝な表情のまま立ち去るメイドさんを見送り、警戒の解かれた部屋でほぅと人心地つく。
なるほど、あてがわれた部屋は上質で世話人もついてはいるが、中の人の心情まではついてきていない様子。
私だって私のような怪しい女の世話を命じられたら不快にもなる。当然の態度だ。決して第一印象が悪すぎたわけではないのだ。
公爵家のメイドさんの人間味を感じたことに安堵をすれば、くぅと鳴る音に気付き空腹を思い出す。
(そういえば昨夜は何も食べていなかったわ)
ベッド脇に軽食が置いてあった気もするが、それどころではない心理状態でそのまま寝落ちしてしまっていた。
振り返ってサイドテーブルを確認して見るが、メイドさんがあっという間に下げていったようで綺麗に片付けられ、代わりに花が生けられている。公爵家のメイドの手際が恐ろしい。
一緒に置かれていった水桶で顔を清め、積んであった自分の荷物の山を解くとお気に入りの深い茜色のドレスを取り出す。慣れた手つきでぱぱっと身支度を整え、装備を整えれば戦闘準備は万端だ。
(まずはこの離れの構造と人員を把握……その前に朝ご飯!)
部屋の外で待機していたメイドさんに案内され、新生活という戦場へと一歩足を踏み出した。
階下へ進み、長い廊下を抜ければ食堂へたどり着く。正面の壁には大きく窓が切り取られ、手入れの行き届いた庭が絵画の様に映えている。その凝った造りに伯爵家との違いを思い知る。
(元我が家は伯爵を名乗っているとはいえかなり年季の入った、よく言えば趣のある……ぶっちゃければぼろ家だったからなぁ。無駄に広さだけはあったけれど)
離れでこれである。庭の奥に見える本邸と思われる館はさぞかしご立派なのだろう。立ち入るなとは言われているが、機会があれば是非探索してみたいものだ。
促された席に座れば待機していた使用人さんたちが速やかに朝食を運び込み、途端に食欲を刺激する香りが眼前に広がる。
だだっ広い部屋の巨大なテーブルで一人でとる食事とはなんとも味気のないものか、と寂しさを覚えるも体は正直なもので。心の中で『いただきます』と手を合わせ、食事を口に運べば途端に顔が綻ぶ。
「……おいしい!」
おっといけない。はしたなかったかと慌てて口を押さえるが、周囲に控える使用人らは気に留める様子もなく黙々と己の作業に没頭している。
敵意、までは感じないまでも好意的とは程遠い雰囲気である。まあ当然か。やたらと圧を感じるのは、私という人間を見定めようという意志なのだろう。
(公爵様はあんな身勝手で粗暴な性格だけど、使用人さんたちからは随分慕われてるのね)
仕事熱心な彼らを見てそんな意外さに感心を覚える。もっとも警戒されているのは当の私なので、呑気に感心している場合ではないのだが。
公爵様はよく分からない人だが敵対するつもりは毛頭ない。そんなことになればせっかく得た自由が奪われ、目的を達するのが程遠くなってしまう。
(そうよ、私にはやるべきことがあるんだもの。結婚しようがアウェーな環境だろうが関係ないわ)
心に浮かぶ寂しげな瞳を呑み込むように、食後のコーヒーを一気に流し込んだ。




