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泥の味、再び

 目の前のソファに腰掛けるのは眉間に深く深い皺を刻み込んだキース様。

 その前の床に額をこすりつけるのは妻であり私ことエリカである。


「この度は大変なことを仕出かしまして、誠に申し訳――」

「いい。それよりその謝罪方法は見苦しいからやめろと以前言ったはずだ」


 しかめた眉は昨夜の事件についてかはたまた土下座に対する不快か。もちろん両方だろう。

 兎にも角にもこれ以上気分を害する行為を重ねるわけにもいかず、渋々ながら顔を上げる。

 公爵家へ来た初日に泥を舐めたこの離れの自室で、私は再びその味を噛みしめることとなり己の堪え性のなさを省みるが、反省だけなら猿でもできる。

 私は王家主催の舞踏会という場で数々の騒ぎを起こし挙句、王族に迷惑をかけながら侯爵相手に盛大に啖呵を切ったのだ。

 あの後はといえば。

 会場に戻られ惨状を目の当たりにしたキース様が、さくっと騒ぎを収束させ私と共に早々に帰宅の途についたのだった。セシルの事も心配だったがキース様がそちらにも手を回してくれていたようなのでひとまずは大丈夫なのだろう。

 家では使用人さん皆が私の有様を見てドン引きしつつも手厚く世話を焼いてくれ、風呂に傷の手当てにと済んだところで今に至る。


(あの後舞踏会はどうなったのかしら。キース様のお立場が悪くなってないといいのだけれど……難しいかしら)


 己の過ちに対しどう償えばいいか考えあぐねていると、床に正座する私の頭にふうと溜息が降りてくる。俯く顔を上げればキース様と目が合い、その表情は怒りではなく戸惑うように苦笑いを浮かべる。


「エリカのせいではない。アキュベリーが目の敵にしているのは俺の事だ。エリカを巻き込んで申し訳なかった」

「それは違います。もともと私に付け込まれる要素があったからで――」

「いや、そもそも俺が傍を離れなければ――」


 不毛な責任の奪い合いに、思わず二人黙り込む。


「……今更言っても仕方のない事だ」


 そうキース様が締めくくり話を切り上げる。それでも。どうしても一言、後悔が漏れてしまう。


「折角いただいたドレスも駄目にしてしまい……ごめんなさい」


 皆が美しいと褒めてくれた。今まで容姿を飾る事に興味がなかった私でも胸が躍った、本当に素敵なドレスだった。キース様が手配して、デザイナーさんに針子さんに生地の生産者さん――多くの人の手が関わり出来上がったものだった。それを一瞬で台無しにしてしまった。


「……ドレスはまた仕立てればいい。小さな傷はあるにせよエリカが無事で良かった。それ程気に入ってくれていたのなら、それで十分だ」


 泣きべそをかく子供をあやすような優しい声色で、そう慰めてくれる。……それが余計につらい。


「しばらくゆっくり休むと言い」

「怪我は少しですもの、私も何かお手伝いを――」

「傷というのは体だけにつくものではないだろう。心も含めて、今は休め」


 私の訴えをきっぱりと退け、立ち上がる。

 私を支えベッドまで手引きするとキース様は部屋を後にし、静寂だけが私を包んでいた。


 ◇ ◇ ◇


 エリカの事はスヴェンに一任し、闇の更けた庭を抜け本邸へと戻る。

 執務室の椅子へと体を投げればいつものようにマルセルがコーヒーを差し出す。


「奥様のご様子はいかがでしょう」

「体の方は問題なさそうだが、精神の方は随分と堪えている」

「左様で」


 言葉短く答える家令の表情は珍しく曇っている。本邸で公爵家の管理を一手に担うマルセルはエリカと顔を合わせる機会は少ない。それでも彼女を慮りこうして心を砕いてくれ、その事実に俺の気分も少し和らぐ。


「社交の場で何と噂されようとエリカ様は旦那様の奥様でございます」


 顔には出していないつもりだったが俺の心中を読んだかのようにマルセルが言う。まったく、敵わない。


「もちろんだ」


 熱いコーヒーを口に運び、今後の対応を練ろうと頭を切り替えた。


「他の貴族の方々の反応はいかがでしょう?」

「恐らく大した問題にはならない。面倒なのはアキュベリーくらいだ」

「ほう、そのようで?」


 俺の回答が意外だったのか、マルセルがくいと片眉を上げる。


「今日は何度か騒ぎが起こったが、最後のもの以外ではエリカはうまく立ち回っていた。特にジュドー侯爵が味方に付いていると明るみに出たのが大きいな」


 奔放だと有名な令嬢が公爵家に嫁いだと耳にしていた貴族たちは好奇の目を向けていたようだが、その分だけ今日の出来事は広く知れ渡った。アキュベリーの見苦しさも加わってエリカの醜聞は随分と薄まったように思う。

 それでも面白おかしく揶揄する者は出てくるだろう。その辺りの貴族をけん制するため、マルセルに対応を指示する。


「アキュベリーは俺の方で対応しよう。あとは……」

「王女殿下、でございますな」


 言い淀む俺の言葉をマルセルが掬い取る。


「……彼女がエリカへ直談判に行くとは思っていなかった。いや殿下の性格を考えれば分かることだな。俺がその事態を受け入れたくなかっただけか」


 ひと際大きなため息が漏れる。

 カレンディア王女殿下に以前から好意を寄せられていた事には気付いている。良く言えば実直、穿ってみれば物事の裏に目が向かない純真無垢なお方だ。理想の貴公子を夢想しているように思えるが生憎と俺は該当しない。

 だからと言って王女殿下を袖にすることもできず、やんわりとかわし続けていたがよもや強硬手段に出るとは。


「王女殿下の事はリィンに任せよう」


 俺は自分の手には余ると判断し、責任者へと丸投げすることに決めた。



 空になったカップにコーヒーを補充したのち、マルセルが立ち去る。普段の職務以外の仕事を随分と任せてしまった。ひと段落したら休暇でも取らせようかとぼんやりと考える。


「旦那様も、本日は早々にお休み下さい」

「ああ。少し考えを纏めたら休む」


 一人になると部屋には静寂が訪れ、相反するかのように城での出来事が脳内をうるさく駆け巡る。


(エリカの側を離れたのが失敗だったな)


 自らの迂闊な行動を悔いつつも、元凶となった人物に毒づきたくなる。

 あの時に衛兵が持ってきた言伝、それはリィンカーティス第一王子殿下からの呼び出しだった。

 舞踏会で妻を紹介しろと言いつつ姿を見せなかったあの男、また体調が悪化したのかと心配して駆けつけてみればいつもと変わらない軽い調子で笑顔を見せたのだ。


「表に出るのが煩わしくてね、だったらキースベルトを呼び出せばいいんじゃないかって。あれ、ところで何で一人なんだい、夫人は?」


 あっけらかんと言うその口を塞いでやりたい所だったが生憎と城内では魔術研究区画以外での魔術の使用は禁止されている。かわりに精いっぱいの怨恨の視線と深い溜息をお見舞いしてやった。

 俺がそんなことをしている間にエリカは、王女殿下と妹を守るため傷ついていたのだ。口惜しいとしか言いようがない。

 会場に戻り騒ぎを目にした時は背筋が凍った。

 ずぶ濡れのアキュベリーの前に立つ彼女は同じくずぶ濡れで、肌やドレスに染みを作りまたあちこち切れているのも見えた。大きな傷跡の残る腕を晒し、それでも――その瞳は曇ることなく強く輝いていた。不謹慎にもその姿がとても美しく思えた。

 恐らく彼女の正義を揺るがす事態が起き、彼女は自分を貫いた。それだけの事だ。

 それでも彼女はその行動を悔い、今も部屋で自分を責め続けている。


(アキュベリーは後でどうとでもなる。まずはエリカを癒やしたい)


 そのためには何をすればいいか。

 明日にでもスヴェンに相談しようと考えながら、彼女の好物をあれこれ思い浮かべてみる。背もたれに身を預ければ途端に今日一日の疲労が顔を出す。

 重い身体に気怠さを感じながら、思考の海へと落ちていった。

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