キースベルト・マクスウェル公爵
(噂通り、いや噂以上のとんでもない女だ)
離れから公爵家本邸に戻ると執務室の椅子に腰を下ろし銀色の髪を乱暴にかきあげる。
背もたれに体を預けながら宵に染まった窓の外を見れば、昼間の事が思い出され自然と溜息が漏れる。
(面倒な女であろうとは覚悟はしていたが、顔を合わせた初日に殴られるとは流石に想定外だ)
あまりの突然な出来事に血が上った頭を冷やすので精一杯で、とりあえず用意していたあの女用の離れの部屋に放り込むだけだった。
しばし時間をおいて少しの冷静さを取り戻し、あのふざけた女に戒めの術でもかけておこうかと出向いてみたが……奇行はおいておくとして、まさか素直に頭を下げてくるのは意外であった。どこまでもこちらを困惑させる。
落ち着きなくとんとんと指で執務机を叩いていればすかさず扉がノックされ、老年の男が入ってくる。
銀の髪――俺とは違って加齢による色だが――を丁寧になでつけ柔和な表情を張り付けた男は家令のマルセルで、手にはコーヒーを携えている。コーヒーを淹れるのは家令の仕事ではないだろうと尋ねたこともあったが、「これは私の趣味ですので」と軽く躱された。代々この公爵家に仕え、俺も子供のころから世話になっている信頼のおける男だ。
「旦那様、奥様のご様子はいかがでしたか?」
「いかがもなにも、散々だ」
大きな溜息とともに吐き捨てるように答える。
振り返れば暴言に暴力に奇行にと、わずか一日の間の出来事だというのに、よくもまあここまで人を不快にすることができたものだ。
「左様でございますか」
俺の隠さない不機嫌さをよそに、手際よくカップにコーヒーが注がれる。立ち昇る香りに意識を向ければわずかに溜飲が下がる。
「奥様は今後は離れで過ごされるという事でよろしいでしょうか?」
「ああ。アレをこの屋敷に入れる気はない。妻と言っても形だけのものだからな。そもそも叩き出さないだけ温情があるというものだろう」
昼の平手打ちの件はマルセルにだけは伝えてある。今後より大きな問題を起こしたときに実情を知る人間がいないのは面倒だからだ。より大きな問題を起こす――自分で考えておいてなんとも嫌な想像だと憂鬱になる。
「先程メイドから報告を受けましたが、奥様のお部屋まで食事を運んだ際に何やら部屋の隅に蹲り呪詛を吐いていた、と怯えながら申しておりまして」
俺の杞憂を察してかさらに溜息が増えるような内容を告げる。……意味が分からん。何だ呪詛とは。新手の嫌がらせか?
大きく息を吐き、コーヒーを一口流し込む。苦みと香りが口に広がり、曇る思考が鮮明さを取り戻す。
「……まあいい、今後は監視を怠るな。特に金品の動きは把握しておくよう伝えろ。離れの担当執事は――スヴェンだったな」
「はい。奥様とは年も近い若輩ですが、変えずともよろしいので?」
「問題ない。対処しきれんようなら補助してやれ」
「承知致しました」
噂によれば社交界での振る舞いはかなり派手だったという。若い執事に粉をかけるような真似をするなら即刻幽閉でもしてやればいい。スヴェンにとっては災難だろうが貴族なんてものは大なり小なり厄介で理不尽なものだ、いい勉強になるだろう。
そしてもう一つ気になるのがあの女の身形である。纏ったドレスは質素な物であったが、髪には見慣れぬ飾りをつけていた。昼に教会で見たときは菫色をしていたが魔力灯の元では薄水色に淡く煌めく、それは光によって色が変化する宝石。僅かに魔力を帯びた……魔石なのか? だとすればかなり高価な物だろう。経済状況の厳しい伯爵家で手に入れるのは困難なはずだ。ならば男に貢がせた物だろうか。俺に無関係な所で贅を尽くすのは勝手だが、領民から得た貯えを鼠に食い荒らさせる気はない。
いや、伯爵家に援助をした時点で俺もあの女に貢がされたことになるのか……忌々しい限りだ。とにかく今後は勝手な真似をしないよう十分に監視せねばなるまい。
今後についての話を一通り終えるとマルセルは退室し、一人椅子に身を委ねる。
随分と面倒なものを背負いこんでしまったと何度目かの溜息をつき、己の左手に目をやる。婚姻の儀を結んだ際に交わした銀の指輪が曇りなく輝いている。
(これさえなければ、本気で叩き出していたところだ)
苦々しい思いでその輝きを見つめる。
婚姻の儀とは契約である。伴侶として相手に尽くすと誓いを立てる……のはあくまで建前で、その本質は血の保護と継承だ。つまりは持って生まれた魔術の資質を正統に引き継ぐための儀式であり、契約の証として魔法印を刻んだ装飾品を夫婦がそれぞれ身に着けるのが、この国の貴族の習わしである。そして一度刻んだ婚姻の儀は新たに破婚の儀を執り行わねば解除ができない。まったくもって厄介な仕組みである。
……そう思う自分に少なからず問題があることは自覚している。
(この婚姻は本意ではない――)
それでも決断したのは、他でもない親友の頼みだったからだ。
『結婚する気がない? 公爵家の跡継ぎはどうするつもりだ? 親類の子を引き取る⁉』
『……まぁ、お前の気も分からなくはないがな』
『だったらお前に頼みがある。とある白の魔力を持つ令嬢をお前が保護してくれないか』
『なぜって、その令嬢には魔術の才がない、いわゆる無能というやつなのさ。が、それでも野心的な貴族に利用されては厄介だ』
『見返り? もちろん感謝と祝いの言葉くらい贈るさ!』
爽やかな笑顔を返すあの男の顔を思い返すと、あの時了承した自分を殴りたくなる。
あの男の事だ、もちろん白の令嬢とやらの噂は十分に把握しての申し出だったろう。だからこそ信用して受けた。
『これで公爵様へ娘を売り込もうとする面倒な貴族もいなくなるだろう、よかったな!』
アイツに言われるのは腹が立ったが、確かに今後は夜会で女性たちに付きまとわれることもなくなるだろうと楽観視もしていた。
(割りに合わんな……)
己の軽率な行動に激しい後悔と愚痴が堪らず零れるが、無意味なことは百も承知だ。
漏れる溜息もそのままに、机の引き出しから書類の束を取り出しばさりと広げる。
婚前に調査したエリカ・バートンの詳細だ。
バートン伯爵家長女。
生母は死去し、後妻の子である妹と弟が一人ずつ。妹は生まれつきの虚弱で床に伏す生活を送っている。
そして、白の魔力保持者。
白の魔力とはすなわち、大別される6つの魔力色である赤・青・黄・緑・黒・白の内、最も希少とされる色である。
バートン伯爵家はこの希少な白を代々継ぐ家系であり、魔力を重視する貴族の社会においてはその意義は計り知れない。にもかかわらずその長女が婚約者すら見つからないというのは、この女が無能であるからに他ならない。
魔力保有量は僅少――この評価ならば安易な生活魔法すら扱えないだろう。まあたとえ魔力量が多くとも扱える技術がなければ魔術師としては二流止まりとなるが、それ以前の問題だ。
貴族は高い魔力を持つ家系が力を持つ。そのため政略結婚によってより才能ある伴侶を迎え入れるのが通例で、無能というのは論外なのである。
(それでも、愚か者は湧いてくるものだ)
単純に白の魔力保持者を所有したいというのならまだいい、中には子を産めるだけ産ませてより才能ある白の魔術師を自分の家系に残そうと考える輩も出てくるだろう。
魔力色の遺伝は親の魔力の強さに左右される。当然無能な白から白が産まれることは稀なのだが可能性がゼロというわけではない。女の身を顧みないのならば尚更だ。
そしてそういうことを目論む輩は元々ろくでもない。
白の魔力は治癒や浄化といった能力と相性がよく、その力を極めれば聖人・聖女と称され王家からも絶大な支持を得ることができるものだ。早々に保護したいという親友の心情は理解できるものだった。
婚姻の儀さえ交わしてしまえば他の者と交わったところで魔力の遺伝は発生しない、つまり魔力なししか生まれない。保護をするには最善の方法となる。
(あの女がそんな自身の価値と危険を自覚していたかは知らんがな)
自覚があるならば社交界で男漁りなどしないだろう。正気の沙汰ではない。今まで無事だったのは偶然の賜物だ。
紙をめくり、親交を持っていると噂のある人物のリストを眺める。上は侯爵から下は平民、商人や冒険者の類まで実に多岐にわたる。いったいどのような生活をしていたら伯爵令嬢がこれほどの男と知り合うのか。
疑問を持ちつつ調査項目を追っていくが、やがてそれは違和感へと変わる。……書類上の彼女と実際に見た彼女では随分と印象に乖離がある。
豪奢な装いで男を誘惑する令嬢? 確かに珍しいアクセサリーは身につけていたがそれ以外はなんとも簡素な装いで、化粧や仕草においても凡庸で目を惹く所はない。直情的な言動は稚拙でしかなく、とても狡猾な貴族や商人たちを相手取って来たとは思えない。
噂が流言かとも一瞬考えたが、本人がはっきりと事実だと認めていたのを思い出す。
(……本当に意味が分からん)
がしがしと頭を乱暴に掻きむしり、書類を机に投げる。
『大体噂なんて信用に値しないことを貴方が証明してますわ』
あの女の言葉が脳裏をよぎり、思わず眉間に皺を寄せる。認めたくはないがその言葉は真実だ。
噂通り浅ましい女――俺が放った言葉だが、果たして本当にそうなのか。
口うるさく生意気で目上の者に対する口の利き方も分かっていない。だがその言葉の内容は理に適っていたと言えよう。
良くも悪くも感情的で馬鹿正直、曲げることのない強い意志を持つ者。それが俺の目に映る彼女の印象だ。
『決めたのは貴方じゃありませんの?』
ああそうだ。この婚姻を決めたのは俺自身だ。
後悔も愚痴も口にする権利などない。だったら。
「見極めてやるさ、あの女の本当の姿を」