新婚初夜は泥の味
「やって! しまいました! 私!」
薄暗い部屋の中、一人ベッドの上でじたばたと叫びながら頭を抱える。昼間の出来事を思い出すとどうにもじっとしてられず、こうして定期的にのたうち回っている。
何せ公爵様を平手打ちである。
「ふ、ふふ……明日になったら処刑かしら。儚い人生だったわ……」
つぅと頬を伝う涙は絶望ではなく目にゴミが入ったからだ。散々枕を殴ったせいか、随分と埃が舞っているようだ。目がかゆい。
いつまでも一人茶番を続けていても問題は何も解決しない。そろそろ諦めて冷静になろう。
「大体何様のつもりなのよ! 公爵様ね! だからってあの尊大な態度はいただけないわ。ああ、だから今まで結婚もできなかったのね!」
冷静になるつもりが言動を逐一思い出し再び頭に血が上りだす。
「私だってねぇ、こんな結婚なんて望んでないのよ……」
と思いきや途端にしぼむ感情。ジェットコースター並みに荒れ狂う情緒に我ながら不安になる。
「何でこんなことになったのかしら」
ぽつりと漏れた自分の言葉の先を手繰り、記憶を遡る。
発端はほんのひと月前。バートン伯爵家に届いた政略結婚の申し込みだった。
社交界で散々な悪評が流れに流れたせいか、適齢期にもかかわらず貰い手が一切見つからない私。
自業自得であり結婚を望んでいない私にとっては都合がよかったのだが、両親にとってはそうはいかない。そんな折に突然舞い込んだ公爵家からの婚姻の申し込みは、まさに渡りに船だったのだろう。
まさかの格上の家からの声掛け、おまけに懐事情の厳しい我が家に援助の申し出まであったというのだ。どんなに不審な話だろうがお構いなしに、伯爵家のお荷物であった私はあっけなく放出されたのだった。
「貴族として生まれたからには結婚が避けて通れないことくらい分かってるわ。だからって見ず知らずの男に10代で嫁入りなんて簡単に受け入れられないわよ。……何で貴族なんかに生まれ変わってしまったのかしら」
呻きながらもさらに記憶を遡っていくと、そこには私が生まれる前の『もう一つの私の記憶』が繋がっていた。
――『異世界転生』、そんな言葉を前世で耳にしたことがある。
23歳独り暮らし、会社員。そしてオタク。それが前世の私だった。
前世の記憶があることに気が付いたのは物心ついてすぐの頃で。見るもの聞くものに違和感を覚え、ようやくここが日本とは違う異世界であり、別人に生まれ変わっているのだと気付いたときは随分とショックを受けたものだ。
なにしろ今生のエリカという名。それは私が日本人だった頃と偶然にも同じ名前であり、加えての黒髪にブラウンの瞳という見慣れた色合いの容姿。だというのに私は私ではないのだ。
いっそ前世と全く違う容貌なら早々に吹っ切れて別人としての新たな生を楽しめたのかもしれない。しかしこの名が姿が楔となって、いつまでたっても自分はこの世界にとって異物であるかのような感覚を拭えずに、ただただ荒れていた。妹の存在がなければ私は引きこもりのニートまっしぐらだったろう。
そんなこんなで後ろ向きながらも立ち上がった今では、巷で悪女として有名な伯爵令嬢へと立派に成長を遂げたのだった。めでたしめでたし。
「一つもめでたくないわ!」
自分の思考にノリツッコミをかまして勢いよく起き上がる。
転生したこと、結婚したことがいくら受け入れがたくとも、これは抗えない現実なのだ。考えるだけ無駄なのだ。
だからそんな事より今の自分にできることを考えねばならない。
目下の問題は公爵様に暴行を働いたことで我が身の存続が危ぶまれている点である。身から出た錆とはいえもう若くして死ぬのはごめんだ。回避できるものなら回避したい。
「まず謝罪、それだけで許されるとは考えにくいわ。ならば土下座……土下座で極刑は勘弁してもらえないかしら……」
なりふり構っている余裕はない。地を舐めて許されるのなら喜んで、喜びはしないがいくらでもやろうではないか。
「斬首、追放、監禁、奴隷扱い……うん斬首だけは絶対回避、追放ならばはい喜んで! なのだけど」
「追放などできるものならばとっくに捨て置いてる」
「そうよね、婚姻の儀を結ぶ前ならばそれも可能だったんでしょうけど……はひっ⁉」
自然と混ざる言葉に思わず相槌をうつが、それがおかしいことに気付き慌ててぐるりと声の方を向く。
広い部屋の中央に置かれたソファに足を組んで座る人影が見える。灯りを落としたこの部屋にあるのは窓から入る月明かりのみだ。薄暗い中に佇むその人物の顔はこの位置からは確認できない。
(まぁ見えなくても声とその態度で誰かは分かるのだけれど)
息を呑み、ゆっくりと近づけばふいに周囲の魔力灯が灯る。蠟燭のような淡い光が部屋の中央を照らし、銀色に包まれた人物の姿が浮かび上がる。キースベルト・マクスウェル公爵……私の夫となった男だ。
言いたいことは色々ある。が。
「……いつからそこにいらして?」
「お前がそこでのたうち回っている時だな」
それはいつだ。この部屋に放り込まれてからというもの、もう幾度となくのたうち回っていた気がするのだけれど。
兎に角しばらく前からこの部屋にいて私の痛々しい様子を観察していたという事か。この男、やはりめちゃくちゃに性格が悪い。
大体女性の寝室に無言で侵入とか紳士のする事なのか。
むかむかと湧き上がる怒りと同時に、そういえば今日は新婚初夜なのだという事を思い出す。
(え、何そういう事なの? ちょっと待って、奴隷は奴隷でも……性奴隷⁉)
頭からさっと血の気が引き急にがくがくと足が震えだす。確かにそれなら斬首は免れるかもしれないがちょっと待って、ちょっと待って――
「……何を考えているかは知らんが、俺に言う事があったのではないのか?」
顔色を赤白青黄とくるくる変えながらだらだらと冷や汗をかいていると目の前の男が呆れたように溜息をつきながら言う。呆れているようには見えるが、その目は冷たく鋭い。
言う事、言う事……そうだ、謝罪だ。ここはもうひたすらに謝り倒すしかない。
未だ混乱する頭のまま一歩足を踏み出せば、震える膝に流された足首にぐにゃりと嫌な感触が走る。
「っ! っ⁉」
バランスを崩した右足を支えようと左足を踏み出せば今度はスカートを思い切り踏みつけ、そのまま前に盛大に体を投げ出す。
結果的にスライディング土下座となった私はもう何も怖くないという開き直りの精神で、そのまま両膝をつき床に額をこすりつける。絨毯が敷かれた床は硬くも冷たくもないが当然舐めるほど清潔な物ではない。だがそんなことを気にする余裕もなく、ひたすらその姿勢を維持する。呼吸するたびに絨毯の毛足が鼻をくすぐり、とても泥臭い。
「なんのつもりだそれは」
「えーとこれは、私的に最大の謝罪を示す礼でして」
「やめろ、見苦しい」
しばらくすると頭上から声がかかり、やめろと言うのでおずおずと顔を上げる。魔力灯に照らされ見えたその銀色の美しい顔は、眉をしかめ嫌悪に満ちた表情だ。ドン引きともいう。
どうやらこの世界には土下座という概念がないらしい。思い返してみるが確かに今生で学んだ記憶はない。なんと言う事でしょう、床まで舐めたというのにとんだ土下座損じゃありませんか。
色々と腑に落ちないながらも冷静さを少し取り戻した私はすっと立ち上がると、改めて貴族らしい礼をとる。
「昼は大変失礼をいたしました」
深々と頭を下げ、相手の反応を待つ。
……
…………
無言の室内の中、時間だけが過ぎてゆく。
一時間……は流石に経ってないだろうが、随分と長い間腰を折ったままの体勢を取り続ける。いい加減、足腰が危うい。
(いつまでっ、だんまり決め込む気なの!)
ふるふると揺れる脚を必死に抑え込みながら床を見続ける。こうなったら意地でも声がかかるまで耐えてやる。
スカートを掴み握り込む拳が痺れて感覚がなくなる頃に、ようやくふぅという静かな呼吸が室内に響く。ため息をつきたいのはこちらだが生憎歯を食いしばりながらの溜息は難易度が高い。
「いつまでそうしているつもりだ」
こちらが聞きたい。
と返すわけにもいかず、そのままの姿勢を維持する。
今度は「はぁ」と比較的大きなため息が漏れ、ようやく目の前の男が動きを見せる。
「お前のような悪辣な女でも謝罪が出来るとは驚きだな。昼の事は分別もつかない子供のしたことと言うことで流してやる。二度はない」
勝った! 違った、許された!
いつの間にか我慢比べに変わっていた謝罪劇はどうやら私の勝利のようだ。
「ありがとうございます」
礼を口にし、ようやく顔を上げるとすでにソファに男はなく、暗闇の中を探せば丁度部屋を出て行こうとするその姿を捉える。
「あっあの!」
「何だ」
相変わらず不機嫌さを隠さない、地を這うような声が返ってくる。灯りの届かない部屋の端だがその綺麗な顔の眉間に深い谷が出来ているであろうことは容易に想像できる。それでも話を聞いてくれる気はあるらしく、こちらの次の言葉を待っている。
「私は明日から何をすれば良いでしょう」
どうやら処罰は免れたようだが、そうなると私には公爵夫人という肩書が残っている。
とはいえお飾りの妻であることは明白だ。暗がりに二人きりだというのに一切触れる気すらないようだし……その点についてはとてもありがたいのだが。そんな私に一体何を求めるのかと、当然の疑問が湧く。
「好きにしろ」
「好きに、ですか?」
どういうことだと思案しているとすかさず捕捉が入る。
「お前の存在はこの家にとっては鼠が一匹増えたようなものだ。任せるような事など何もない。ただ引き取った以上は最低限の面倒はみてやる。この家に泥を塗るような真似をすればそれも分からんがな」
(なるほど? せめて犬猫ペットの類と言って欲しいところだわ)
「お前のどこに愛玩要素がある?」
「ありませんわね」
心の声がうっかり漏れていたようで、すかさずツッコミが入ったのでそれに同意をしておく。
相手の表情は見えないのでとりあえずにっこりと微笑んでみると、細く長い溜息が返される。うむ、呆れられているわ。
「付け加えておくが、お前が好きにしていいのはこの離れだけだ。鼠とて倉庫を食い荒らせば駆除されるものだ。分かるな」
離れ? ここは公爵邸の離れだったのね。
件の後、半ば錯乱状態のところを無言のまま連れられ放り込まれたこの部屋は、確かに牢獄の類ではなく綺麗に整えられた客間である。
この離れでなら好きにしていい、そう言う事かと考えていればいつの間にか室内から男の姿はなく。
閉じられた扉からは静寂が滲み、部屋の中央に残された魔力灯の淡い光の中に私だけが佇んでいた。
固まった体をほぐす様に自分の腕をにさすれば、この身の生存を実感し安堵する。
窓の外からさざめく虫の声が耳に届くと、止まっていた時が動き出したかのように溜まっていた疲労がどっと吹きだす。
ついでに五感が正常に働きだしたのか、脚やら腰やら手の平やらあちこちが痛み始める。満身創痍だ。
「口の中が泥臭いわ」
ベッド脇に水差しが置かれていることに気付き、苦々しい口の中をゆすぐとそのままベッドへと体を投げ出した。