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溶けて染みて広がって

『エリカ』


 私の名を呼ぶその声は誰のものだったか。

 もう顔も朧気にしか浮かばない前世の家族だったか、それとも幼い頃に亡くした今生の母かまだ可愛がってくれていた父か。

 エリカとは前世で言えば花の名で、花言葉は確か孤独とか寂しさとかあまりポジティブなものではなく、昔からこの名があまり好きではなかった。

 そんな前世から繋がる鎖のような名だが、いつしか肩書きでばかり呼ばれるようになり聞かなくなって随分久しい。『お嬢様』『お姉さま』『バートン嬢』『奥様』、どれも私であり私でない。だからこそ私であるために私は――



 再び目が覚めたのは朝日の中。

 やたらと頭がすっきりしているのはバカみたいに泣いたからだろう。

 昨日……多分昨日と同じく自室のベッドの上にいるが随分と回復した様で、あれほど気怠かった体がすっかり軽い。調子に乗ってぶんぶんと腕を振ってみると右腕に激しい痛みが走り、思わず蹲って悶絶する。衰弱した体はともかく、怪我の方はまだまだ痛むようだ。


(だからと言って三日も寝っぱなしじゃ体が腐るわ)


 軽く伸びをして傍に置かれていた水桶で体をサッと拭う。あまりべたついた感触がないのは、私が寝ている間にもこまめに世話を焼かれていたのだろう。頭が下がる思いと同時に人に世話をされることに慣れていない羞恥でなんともいたたまれない。よし考えるのをやめよう。

 右腕の包帯に邪魔されながらもなんとか着替えを済ませたころ、ノックと同時に扉が開きハンナさんが入ってくる。


「失礼いたします――奥様⁉」

「おはようございます、ハンナさ」

「お体の具合は大丈夫なんですか⁉ まだ寝てらして下さい! ああもう、なんで着替えまで!」


 ……なんだかすごい剣幕で怒られている。

 部屋に入り私を視界にとらえた瞬間、彼女は大股でずいずいと私に詰め寄り体のあちこちを確かめる様に見て触っている。


「えっあの、ごめんなさい……」


 むんずと顔を掴まれたまま壁に追いやられ身動きのとれない私は、能面のような表情を浮かべたハンナさんに謝罪をする以外に出来ることはない。顔が近い。怖い。泣きそう。


「お顔が酷いです」


 それはなんとも傷つく一言だ。美人でないことに自覚はあるがそこまではっきり言われると流石に凹む。


「瞼が大分腫れてます。すぐに冷やしましょう」

「あ、そういう……」

 

 言われてぱちぱちと瞬きをしてみればなるほど、重く腫れぼったい瞼に熱を感じる。まああれだけ泣けば当然だろう。


「お食事の方は出来そうでしょうか? 部屋までお持ちいたします」

「食堂でいいわ」


 ソファに座らされ目に濡れタオルをあてがわれながら答える。一瞬私の顔を押さえるハンナさんの手にくっと力がこもった気がする。いやきっと気のせいだ。タオルのせいで彼女の顔は見えないが、優しい笑みを浮かべているに違いない。


「お屋敷内も他の皆の顔も見ておきたいの。でないと安心して休めないわ」

「……承知しました。具合が悪くなるようでしたらすぐにおっしゃって下さい」


 ふぅと諦めともとれる溜息が聞こえた後、タオルの隙間から彼女の顔が見えばちりと視線がぶつかる。

 にこりと笑みを向ける彼女は想像通りのはずなのに、その圧は計り知れない。


「具合が悪くなるようでしたらすぐにおっしゃって下さい」

「……はい」


 流石は公爵家のメイドさんだ。彼女に逆らってはいけない――そう本能に叩きこまれた瞬間だった。



 ぴったりと付き従うハンナさんと共に食堂へ向かえば、通りすがる使用人さんたちが一様に声をかけてくる。


「奥様! もうお加減はよろしいのですか⁉」

「ああ、お元気そうで何よりです……!」

「奥様、先日は助けていただき誠に――」

「皆さん! 奥様のお体はまだ万全ではありませんので! ほどほどに!」


 たまに挨拶はする人・未だ名前も知らない人こもごも皆が顔を綻ばせ中には涙ぐむ人までいて、何事かと怯んでいるとすかさずハンナさんが間に体を滑り込ませる。群がる使用人さんたちを老若男女問わずぺりぺりと剥がしてゆくハンナさんが勇ましい。その手際の良さに「アイドルの握手会ってこんな感じなのかもしれない」などと参加したこともないのにぼんやり考えてしまう。

 会話もそこそこに使用人さんたちをかき分けて――主にハンナさんが――ようやく食堂まで辿り着く。大した距離でもないのに疲労を感じるのは、やはりまだまだ本調子ではないのだろう。


「奥様、どうぞおかけ下さい」


 勧められた椅子に腰を下ろすと思わず息が漏れ、ハンナさんが不安そうな面持ちで覗き込んでくる。


「大丈夫、少し疲れただけよ。それより皆元気そうで良かったわ」

「ええ、奥様のお陰だと皆感謝をしております」


 慌てて言い繕った言葉への返事は背後からで、振り向けば片眼鏡(モノクル)を光らせた仏頂面の執事殿がそこにいた。


「……まだお顔色が優れないようですが、そのような体調でわざわざ歩き回るとは相変わらず無茶をなさる――」

「スヴェンさん! よかったお元気そうで!」


 冷たい眼差しとその慇懃無礼な態度が随分と懐かしく感じる。変わらぬ様子に安堵し笑みを返せば彼は言葉を詰まらせ、やがてコホンと一つ咳払いをし深々と頭を下げる。


「え? スヴェンさん?」

「言ったでしょう、皆奥様に感謝しておりますと。貴女に助けられ大事無く済みましたこと、使用人一同を代表し私から御礼申し上げます」

「いやいや、だから私は騒ぎを起こしただけで何も解決できなかったんだってば!」


 つい最近も似たようなやり取りをした気がするわ。同じように否定を返せば、スヴェンさんはハンと目を細めつつ口角を上げ残念なものを見るような表情で座る私を見下ろしている。


「まったく貴女という方は呆れますね。そんなわけないでしょう、何をおっしゃっているのです? 奥様の的確な指示がなければ重傷者も出ていたことでしょう」

「そうですよ! 私のことだって奥様が身を賭して救出に来て下さったじゃないですか!」


 憎たらしい表情ではあるが言葉は誠実なものだ。ハンナさんもスヴェンさんを援護射撃するように同調する。


「感謝の意すら受け取っていただけないとなりますと我々としても立つ瀬がなくなります。ああ、困りましたねぇ」

「わ、分かったわ! お礼の気持ち受けとるから!」

「結構です。初めからそうおっしゃって下さい」


 ぐぬぬ。わざとらしい困り顔に押し切られてしまったわ。

 先程の使用人さんたちの表情を見たら無下にすることもできない。不本意ながら承諾すると食堂にいた使用人さんたち皆が表情を明るくし、仕事の手を動かしだす。ぱたぱたと響く足音や厨房から聞こえるやり取りの声、変わらぬ日常がそこには在りとても落ち着く空間だ。


(私は、少しでも力になることができたのかしら)


 運ばれてきた料理は細かく刻まれた野菜や豆が煮込まれたスープで、弱っている私の体を気遣って考えられたメニューなのだろう。口にすれば優しい味が広がり気持ちもお腹も満たされていく。


「それにしても、顔色とは別に随分と酷いお顔をされてますね」

「これはまあ、気にしないで下さい」


 食事を終えた私にスヴェンさんが語りかけてくる。その目線を辿れば恐らく瞼の腫れの事を言っているのだろう。ハンナさんに冷やしてもらったがその程度で治まるはずもなく、化粧でごまかしていたのだが近くで見られればやはりバレる。

 そもそもなぜあんなに大泣きしてしまったのか。公爵様は何も酷いことは言っていない、むしろとても優しかった。だというのに私は。

 数分前のスヴェンさんの言葉が頭をよぎり、サッと顔が青ざめていく。


「私、公爵様にとても酷いことを言ってしまったわ」


 今更ではあるが自分の失態を改めて認識する。労いに対して全面拒否かつ号泣だなんて、無礼どころかただの地雷じゃないの。これはまずい。

 ぎぎぎと鳴りそうなぎこちない動きで首をスヴェンさんの方へ向ければ、眉をこれでもかとばかりに寄せ盛大な溜息を吐かれる。


「またでございますか? 奥様が旦那様に失礼を働くのは今に始まったことではないので驚きませんが、もう少し態度を改めていただきたいと――」

「そうだけどそうじゃないの! 今回は全面的に私に非があると言うか、理不尽ここに極まれりというか、とにかく謝らないと! スヴェンさん、公爵様に取り次いでもらえないかしら」


 私の言葉に、これ以上は寄せる皺もないだろうと思っていた眉間の谷が深度を増していくのが分かる。


「殊勝なお心掛けは大変結構でございます。しかし旦那様はご多忙で今朝も早くから登城されております」

「そう……。じゃあ戻られたらお時間いただけるよう言伝をお願いできるかしら」

「承知いたしました」


 ハンナさんが淹れてくれた食後のコーヒー代わりの薬草茶が苦々しく舌を刺す。

 反省と後悔の念がぐるぐると胸に渦巻くまま、それから一週間が過ぎた。

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