救われたもの、救ったもの
――温い泥に沈んでいた身体がゆっくりと浮上する様な感覚。
そんな重たい気怠さの中、ゆっくりと瞼が開く。
(ここは、どこ?)
意識はぼんやりと虚空を漂い、目覚めたはずなのに未だ夢の中にいるようだ。
何度かしぱしぱと瞬きを繰り返し視線だけを周囲に這わせると傍に誰かがいることに気付く。
「っ奥様! 気が付かれましたか⁉」
僅かに蠢く私に気付き、その人影が弾けるように声を上げる。がばっと私を覗き込むように立ち上がったその人は――えーと、確か……
「……ハンナさん、だったかしら」
「はいっ! メイドのハンナです!」
ぎゅうと握られた手からは温かな体温を感じ、ああそうか、私は意識を失っていたのかとようやく己の現状を思い出す。
「貴女は無事なの? 怪我はない?」
確か彼女を探すために魔力の吹き荒れる中を彷徨っていたはずだ。動かない身体のまま何とか顔だけを彼女に向け見つめてみると、うるうると揺れながらも力のこもったその瞳で私を見つめ返してくる。
「そんな事、私は奥様にお助けいただいたのでもう大丈夫です! それよりもご自分の心配をなさって下さい! お体の具合はいかがですか?」
大丈夫という言葉を聞いて安堵するも、なぜだか後半キレ気味になる彼女にびくりと体が跳ねる。この子こんな性格だったかしら? 日頃私の世話を担当してくれているものの、やることと言えば部屋の掃除や汚れ物の回収などで直接顔を合わせることは少ない。それもこれもすべて新生活の初日に奇行を目撃されるというやらかしのせいであり、ずっと距離を取られ怯えられていると思っていた。
「熱は大分下がったようですね、どこか痛みはございますか? 目が覚めたらお水を飲んでいただくよう言いつけられてますが、お体起こせますか?」
「アッハイ」
普段のおどおどとした様子からは想像もつかないほどにテキパキとその手を口を動かしている。未だ本調子ではない私はそのテンションに追い付けずに、とりあえずこくこくと頷いておく。
「それではゆっくりお体起こしますので、お辛いようでしたらおっしゃって下さい」
ハンナさんに支えられながら起き上がるとようやく辺りを見回すことができ、そこが離れ二階、自室のベッドの上であることを知る。穏やかな日が差し込む今は一体何時頃なんだろう。意識を手放す前の獰猛な嵐は消え失せ、目に映るままの凪いだ空気が辺りに満ちている。
「静かね。ここはもう安全なのかしら」
「はい、ご安心ください! スヴェンさんのお話では魔力の嵐?というのが起こっていたそうで、旦那様がいらして収められたと伺っております!」
(そう、公爵様が……)
ハンナさんの言葉を聞きながら口元まで運ばれた水を促されるままに呑み込むと、余程乾いていたのかあっという間に体中に染みわたり、ほぅと息が漏れる。
なるほど、高名な魔術師である公爵様ならばあの嵐を収めるなど容易い事なのだろう。二口三口と水を含み、つらつらと湧き出る思考ごと飲み込めばようやく体も心も人心地つく。
「ありがとう。他の皆は無事? 怪我人や病人は――」
「奥様が一番の重症なんですよ! 何せこの二日間ずっと眠り続けていらしたのですから」
「えっ」
思わず短く声を上げ衝撃的な言葉を放ったハンナさんを見れば、その目は責めるようなあるいは案ずるような複雑な表情を見せる。
「……皆心配しております、ゆっくりお休みになられて下さい。奥様が目覚められたこと報告してまいります。何かございましたらこちらのベルでお呼び下さい」
再びベッドへと寝かされ、枕元にハンドベルが置かれる。ぱたりと扉が閉められ忙しない足音が遠ざかると、一人取り残された空間が静寂に包まれた。
(まさか二日も寝たきりとは)
意識は覚醒したものの未だに重く動こうとしない体が、それが事実であると私に納得させる。疲労かはたまた栄養不良だろうか。ふんと無理やり体をよじってみると、ずきりと右腕に鋭い痛みが走る。
(っく、痛ぅ……。そういえば怪我もしてたんだった)
涙目になりつつも布団から引っ張り出してみると、包帯をぐるぐると幾重にも巻かれた右腕が現れ――なんだか大仰じゃないのこれ? 指先に力を込めれば痛みながらも動かすことはでき、ひとまず胸を撫で下ろす。
それにしても想像以上に体が重いわ。動くことを諦め、おとなしくハンナさんの言葉に従おうと手足を投げ出し脱力する。柔らかく沈み込むベッドに嫁入り当初は体を痛めていたものだが、今ではすっかり体に馴染んだようで優しく労わる様に包み込んでくれる。
(慣れるってコワイわね。もうあの硬いベッドには戻れない……っ)
くぅと眉間に皺を寄せそんなことを考えてみるも、きっと硬いベッドに横になれば文句を言いつつもすぐに慣れるんだろうとも思う。私はそんなに繊細な人間ではないのだ。随分と余裕がでてきたのか、どうでもいい思考ばかりが浮かんでは脳内のお花畑を跳ね回っている。
静まり返る部屋の中、出来ることもなくぼんやりと天井を眺めていると先程のメイド、ハンナさんとのやり取りが思い浮かぶ。
(見つけた時はピクリとも動かなかったけど、随分と元気そうでよかったわ)
私が寝ている間に回復したのだろう、既に労働に勤しむ彼女は私の世話をしていてくれたようだ。知らぬ間に随分打ち解けてくれたみたいだが、彼女が助かったのは公爵様のおかげなのでなんとも心苦しい。
(スヴェンさんにデデに、他の人たちも元気かしら)
ハンナさんによれば私が一番の重症らしいので恐らく大事は無いのだろう。騒動も無事収まったようだし、後は自分の体が回復すれば万事解決元通り――であるはずなのに。もやもやと何やら重たいものが胸につかえるような感覚を覚える。
ずんずんと高度を下げ落ち込む気分の中を、以前公爵様に言われた言葉が通り抜けていく。自己満足、無能、どれもこれもがすれ違いざまに私にクリティカルヒットを与え、最早ノックアウト寸前だ。
(結局私は役立たずのままね)
魔術書を放置し館の皆を危険に晒し、公爵様の手まで煩わせる。問題を起こすだけ起こして解決は人任せとは、言い訳のしようがない。
(ほんと嫌になる)
既に地べたに這いつくばった情動を立ち起こすべく拳を握りしめるも、右腕から痛みが返ってくるばかりで一向に頭が持ち上がる気配はない。
皆に合わせる顔がない。そう思った時に限ってやってくるものだ。
コンコンと軽いノックが響いた後、静かに部屋の扉が開く。そこにいたのは今一番会いたくない人物だった。
「入るぞ」
短い言葉は返事を待つ気もなく、ずかずかとベッドの傍までやってくる。女性の部屋でこの振る舞いはあまりにもデリカシーがないのでは? そう思うもよくよく考えれば夫婦なのだから何の問題もないのだろう。
ベッドを覆う繊細なレースが施されたカーテンをその人がめくると、相変わらず銀色にきらきらと輝く美しい顔が私の視界に入ってくる。
「公爵様……」
「目が覚めたと聞いたが、具合はどうだ」
いつも通りの無表情のままに問われる。若干目を細めているようにも見えるが、表情に乏しいこの人はどうにも言葉の意図が読み取りにくい。ただその声色は平坦ながらも鋭さは感じず、責めるのではなく単に確認をしているように思える。
……まあ怒っていようがいまいが私の行動は変わらないのだが。何とか少し力が入る様になった体を無理やりに起こし、公爵様へと向き直る。
「無理をしなくていい、まだ体が動かないのだろう」
「この度は私の落ち度のせいで皆を危険に晒しましたこと、大変申し訳ございませんでした」
公爵様の言葉を聞き入れることもなくベッドの上で深々と頭を下げる。
「おい待て、それはどういう――」
「詫びて済むことだとは思っておりません。どのような罰でも」
「話を聞け!」
珍しく声を荒げる公爵様に驚き、思わず顔を上げてしまう。かち合った視線を覗けばこれまた珍しく、眉を下げ困惑した表情を見せている。
……これはどういう表情だろう? 困惑顔を返す様に見つめていると、公爵様は顔に手を当て、はぁーと深く息を吐く。
「確認するが、お前の言う落ち度と言うのは『これ』の事か?」
しばらく俯いた後、公爵様がそう言って私の目の前に掲げたのは一冊の本、あの書庫で見つけた魔術書だった。
こくりと頷き続きを待つと、再び問いが投げかけられる。
「何故この本が魔術書だと分かった?」
なぜ、そう問う意味は、その本の内容は魔術師でないと確認できないものだからだろう。とはいえそれを確認される意味は分からない。分からないので思ったままの事を正直に口にする。
「表紙は立派なのに中身が白紙でしたので。紙から僅かな魔力は感じましたし、多分そうなのかなぁ、と」
「見えないからこそ、か。大した洞察力だ。ではもう一つ聞くが、このメモを書いたのはお前だな?」
次に公爵様が示したのは一枚のメモで、なぜだか随分としわくちゃだが確かに私が書いて魔術書に挟んで置いていったものだ。私が頷くのを確認し、公爵様が続ける。
「これはヒース商会で扱っているインクを使って書いたのだろう、微々たるものだが魔力を含んでいる。このインクが本の間に挟まったことで内に書かれていた未完成の魔術式が誤作動を起こし魔力嵐を発生させた、と言うのが事の真相だ」
頷きながら黙って聞き入ってみれば成程、やはり原因は私にあるようだ。
「やはり私のせいで――」
「今回の件はお前の責任ではない」
再び頭を下げようとするも、阻止するように公爵様の言葉が差し込まれる。しかしその言葉の意味はいまいち呑み込めず、やり場のない手が宙ぶらりんな状態でおろおろと空を切る。
「どういう事でしょうか?」
「そのままだ。魔術師でないと扱えない本を離れに放置していたのは俺だ。これは当主としてまた魔術師としてあるまじき失態だ。すべての責任は俺にある。……すまなかった」
「えっ、あのちょっと、何でっ……⁉」
静かに、目の前の頭が下げられる。いつも冷たい視線を放つその表情は俯いて見えず、雑に束ねられた銀色の髪が所々跳ね、私の眼前に向けられている。
「何でそうなるんですか、おかしいですよね⁉ だっ駄目ですよ公爵様がそんな簡単に頭を下げたりしては! ほんとやめっ、やめて下さい!」
半ばパニックになりながら目の前の男の頭を上げさせようと喚き散らすも動じることはない。ベッドに座る私よりも更に低く位置したまま弁明は続いていく。
「お前には随分と助けられた。使用人たちを纏め防護壁を作り、メイドを助けるために自身を顧みずに救出を試みた」
「わっ私は、何もしてません……できませんでした! 指揮を執ったのはスヴェンさんだし壁を作ってくれたのはデデ、ハンナさんだって魔術書だって――」
「お前が動かなければ被害はもっと大きくなっていただろう。俺が戻るまでの間よく皆を守ってくれた。エリカ、この結果はお前の勇気と日々の勤勉さによりもたらされたものだ。感謝する」
ゆっくりとあげられた顔は歪んでよく見えない。
「エリカ、どうした⁉」
困惑する公爵様をよそに、私の瞳からは大粒の雫が止めどなく溢れ出す。ぱたぱたと落ちては布団に服に滲んで消え、それでも止まらずに次から次へとその染みを大きくしていく。
「エリカ……」
ぼろぼろと泣きはらす私に為す術もなく困り果てた公爵様の声がなんだか遠く聞こえる。数度しゃくりあげながら絞り出した声は、まごうことなき私の本音で。
「……そ、んな、言葉なんて、欲しくない……っ」
それだけ言うと嗚咽が止まらなくなり、もう自分でも抑えられずに子供のように泣きじゃくる。
「ハンナ、彼女を休ませてやってくれ」
「は、はい!」
後ろに控えていたであろうメイドさんに私を託すと、その人の気配が目の前から消える。
柔らかな感触に体が沈みこみ、やがて暗い淵へと意識が溶けていった。




