3-優斗 独り考え事
少しだけ重い内容になります。番外編にしようか悩みましたが、背景として知っていただきたいので本編に組み込みました。
ドキドキや、胸キュンな話はこの先の話を待っていただけるとありがたいです!
「やっと高速か」
運転手の呼びかけに対して、心の中でそう呟く。
隣の相田さんはどうやら音楽を聴いているっぽい。
もともと地元は宮城県なので、青森に来てからも一人で何度か帰省していて慣れていた。
―俺に家族はいない。
いや、正しく言うのなら、居なくなってしまった。
両親と妹。それが俺にとっての一番身近な家族、つまり肉親と言うものは、俺が小学1年生の時に突如居なくなった。
決して捨てられたとか言う訳じゃないんだけどね。
その後は、母方の祖父母に2年間育ててもらったが、寿命と病で立て続けに亡くなった。身内がいなくなり、寄りどころの無くなった俺は、父方の祖母(すでに他界している)の親戚に引き取られた。
その親戚の叔父さんと叔母さんは俺になど興味なく、むしろ邪魔扱いしていた。
「なんであんな子を引き取ったのよ…!」
「仕方ないだろ。もともと寄りどころが無くなったうちが引き取るよう、契約されていたじゃないか。」
「そんな勝手な…うちだって一人の子供を育てられるほどのお金はないのよ⁉︎ まだ小学3年生だし。これから中高の入学金とかもあるのよ…!?」
「そんなの佐伯さん(2年間優斗を育てた母方の祖父母)の保険金があんだろ。その保険金の受け取り人はこいつなんだとよ。なんでももう肉親が他にいないからな。ふざけた話だよな。だが、それでなんとかできるだろ。高校卒業させるまでだ。その後はもう赤の他人だ。」
こんな叔父さんと叔母さんのやりとりも、いつの日か聞いたっけな。
それからは叔父さんの仕事の都合で、1年や半年おきと言う短いスパンで、何度も転校を余儀なくされた。秋田、山形、岩手…東北はどこもかしこも一度住んだことがあった。
今でこそ、叔父さんの仕事が落ち着いて、高校1年生から現在の高校3年生までここ青森で過ごせているが、この転校の繰り返しで
友達なんていらないと思った。
仲良くなっても、どうせすぐに別れが来てしまう。
両親、妹、祖父母。
数々の別れを体験していた当時小学生の俺には、叔父さん叔母さんの重圧の他に、「別れ」が精神的に苦しく感じていた。
中学に入ってからは友人どころか、まともに会話を交わすする人すらいなかった。作らなかった。
ただ、宮城に小学1年生からの友人が数人いて、そしてずっと友達でいてくれると言ってくれたから、それが唯一の救いであり、逆に俺が他に友人を作らない性格を形成したのだ。
でも、家族と別れたあの日から、何も変わらない。家と呼べない家に帰っても、誰もいない。叔父さんと叔母さんは俺を育てるため、共働きになっていて、いつからか、
「食事くらい3人分作れ。ここまで育ててやってるんだ。それくらいできるだろ。」
と言われ、いつのまにか、
「洗濯くらいできんのか?」
「こっちは仕事してきてるんだ。気を利かせて風呂くらい出しておけ。」
「掃除もろくにできないのね。」
と、炊事以外の家事もほとんど1人でやるようになっていた。
あれは家じゃない。ただ衣食住ができるだけの場所。俺の帰るべき場所じゃない。
自分は悲劇の主人公か何かかと思っていた。
我ながらよく耐えていると思う。高校生なんて思春期でもあるし、反抗するものだろう。
でも世の中には、ご飯の食べれない人が居れば、住む場所だってない人もいる。そう考えると俺は何も言い返せない。もしかしたら、まだ、恵まれている方なのかもしれない。
この考えが俺の自我を奪っていきそうで怖かった。
こんな保護者だから、俺が7日間家を出て行くことに関しても
「勝手にしろ。」
なんて言われた。
と、独り、流れゆく風景を窓越しに遠目に見ていたら、近くの状況が見えていなかった。
ん?なんだこの肩の重みと匂いは…?
ふと右肩を見ると、相田さんの頭が俺の肩に寄りかかっている。
(すぅ・・・すぅ・・・)
寝ている⁉︎ だと…⁉︎
やばい。動けん。。。
さぁてと。いかがしましょう。この状況。
ちょっと悲しい独り事を考えている優斗君。
相田さんとの現状に気づいた後↓
“一瞬ドキッとしたが、割とこれまずい状況なのでは?”
((ちなみにこの状況、カメラにしっかり撮影されてます♪))