第二話「シシ狩り」
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齋藤の言うとおり、木曽路は山の中にあった。
だが、木曽路に続く秩父の道すらもまた、山の中にある。
昼は青々した緑の葉も、墨をたらしたように黒く染まる。
その葉が、三日月から放たれるわずかな月明かりを遮り、4人の体は黒と同化してしまっている。
4人とは、大蔵合戦から生き延びた、木曽義仲(駒王丸)、その母である小枝、幼い女中の巴、それを手引きする齋藤実盛である。
しかしこの闇が、この4人の逃走を、追っ手から守っている。
「齋藤どの、あの動物はなんだ。不思議な声で鳴く」
駒王丸は、齋藤の胸に抱かれながら、指をさし質問している。
幼児は本能的に暗闇を恐れるものだ。
駒王丸は、恐れるどころか好奇心を隠しきれない様子で、齋藤に尋ねる。
「ほう、あれが見えなさるか」
齋藤が顔を上げ、感心してそう答える。
淡い三日月が、フクロウの輪郭を薄く示す。
「あれはフクロウという鳥。おもに夜に活動いたす」
「あのような姿で、空を飛ぶのか」
「ずんぐりな姿ですが、あれでなかなかの翼を持っているのです。獲物をとらえる力は驚嘆に値します」
「そうか。見てみたい」
そう言うやいなや、ふくろうが翼を広げ滑空した。
駒王丸の見てみたいと口にした瞬間であったため、不思議なことがあるものだと齋藤は思った。
しかし、驚くべきことはこのあとにあった。
ふくろうが、こちらに向かってくる。
齋藤はとっさに剣を抜こうとした。
野鳥が人を襲うことはままある。
「齋藤どの。大丈夫だ」
駒王丸に言われ、齋藤の手が止まる。
その間に、フクロウが肩に止まった。
フクロウの口には、雀の幼鳥が加えられている。
「くれるそうだ」
駒王丸が両手を差し出すと、フクロウがその中に雀を離した。
フクロウはすぐに飛び立っていった。
「駒王丸様は、動物と会話することができるのか?」
齋藤が驚きを隠せず、そう尋ねる。
「会話はできぬが、伝わってくるだろう?」
長らく馬の世話をしていると、馬の言わんとすることが分かるということはある。
それが野生の動物で、初見でそのようなことをする。
幼児特有の能力と片付けるには、あまりに希有な例に見えた。
「あっ」
小さい叫び声が聞こえた。
小枝の声だ。
「小枝御前、どうなされた!?」
後ろからついてきてるはずの小枝に、斎藤が呼びかける。
声からすると、斎藤が思っていたよりも離れていた。
「なんでもありません。少し、踏み外しました」
息が切れた声で、そう答える。
月明りが出ているが、鬱蒼と茂る枝葉が、足下を隠す。
小枝は恐怖を感じ、力強く足を踏み出せない。
当然だ。
道とはいえ、獣道。
落石などそのまま岩がむき出しであるし、そこら辺に木の根っこが張り出している。
下手に踏み込めば転ぶ、足をくじく、最悪の場合は滑落する。
滑落すれば、ただでは済まないだろう。
恐怖は地形に留まらない。
野鳥の鳴き声が聞こえる。
獣の息遣いが聞こえる。
たまに訪れる静寂も、それがより一層想像を掻き立てさせてしまう。
かわいげのあるフクロウの声も、夜目が効かない小枝にとっては、恐怖でしかない。
(今からでも平地を行くべきか)
斉藤がそう思案する。
このままでは、木曽に着くまでに何日もかかる。
秩父にも平地はある。
北に迂回するか。
そうは思うが、どこまで敵方が占拠しているか分からない。
今の武蔵国(埼玉、東京、神奈川の一部)は、危うい。
普通に考えれば、このような山道は、女、子どもが通る道ではない。
だがらこそ、敵の意表をつける。
それに、木曽への最短に通じる。
やはり、安全は山の中にある。
せめて甲斐国(山梨)まで抜ければ、敵の追っ手を気にせずに平地を移動できる。
ここは、小枝御前にある、母としての強さに賭けよう。
斉藤はそう結論付けた。
「やあやあ、今日はお月様が夜道を照らしなさる。やはり、駒王丸様は神に愛されたお方だ」
齋藤はのんきにそんなことを言う。
当然、小枝を励ますためだ。
小枝はくすっと笑った。
「ええ。あの方の御子ですから」
息を切らすのを隠せないまま、小枝はそう答える。
「我は、父君と母君の子だ」
駒王丸がそう答えるので、小枝と斎藤は声をあげて笑った。
「利発な子ですな」
斉藤がそう言うと、
「ありがとうございます、斎藤殿。おかげで体が軽くなりました」
小枝の返事に、強いお人だと斎藤は思った。
「なんの。某の言葉でお体が軽くなるのであれば、そんな光栄なことはございません」
ふふ、と小枝はまた笑う。
しかし。
斎藤は思った。
驚くべきは、巴と呼ばれる童女だ。
それもそのはず。
巴は、斎藤の前を迷いもなく突き進んでいる。
今は、後ろを振り返り、談笑している3人をじっと見つめている。
斉藤は駒王丸を抱え、小枝を気にしながら進んでいるとはいえ、まったく遅れをとらない。どころか、前を進んでいる。
女児であの速さは異常だ。
身長は3尺もない。
張り出した木の根を越えるにしても、大人であれば跨げるくらいの高さでも、巴の胸くらいある。
その運動量は、斎藤らの比ではない。
その巴が、息を乱さずについてくる。
胸くらいあろうが、頭より高かろうが、猿のように手足をうまく使い、枝や岩をつたいながら移動する。
それどころか、駒王丸たちを気づかい、落ちた枝や石など、障害になりそうなものを除けているのだ。
こんな夜道で、しかも巴は手負いである。
常軌を逸していると言っても良い。
(この童女はやはり、神の化身やもしれない)
斎藤にとっても、この山道は恐ろしいものである。
巴に心強さを感じるとともに、そら恐ろしさを感じた。
立ち止まりこちらを見ていた巴が、こちらに向かって引き返し始めた。
こちらを気になったのかと斎藤は思い、巴のほうに歩き出す。
それでも巴は歩みを止めず、斎藤の目の前まで来た。
「斎藤どの。猪の声が聞こえる」
ずっと黙っていた巴が口を開く。
「なんと」
巴に言われ、斎藤は耳をすます。
はたして、猪の息遣い、足音が聞こえた。
近い。
「猪……!」
小枝は息をのむ。
猪は、田畑を荒らす害獣である。
駆除しようした人間が、猪の被害に遭い、命を落とす話はよくある。
猪は500斤(350kg)ほどあり、人の何倍もの速度で走る。
当たればひとたまりもない。
猪に当たり、太ももが破裂し失血して死ぬ者を、斎藤は見たことがある。
「大丈夫です。落ち着いて、鈴を鳴らしながら離れましょう」
斎藤がそう言うと、
「音を鳴らすのですか? こちらの場所が分かって、襲ってくるのではないですか?」
小枝は脅えながら、そう聞いてくる。
「猪が人を襲うのは追い詰められたときだけ。人間の気配を察すれば、向こうから離れていきまする。猪は、人に対して臆病な生き物なのです」
斎藤は鈴を鳴らそうとする。
その手が止まった。
「いや、今日は猪鍋としゃれこみましょう」
斉藤はそう思い立った。
よくよく考えれば、せっかくの獲物だ。
食べられるうちに食べたほうが良い。
道中はまだ長い。
「暗いぞ、斎藤。無理だ」
巴が口を開く。
斉藤はにやりと笑った。
「神の化身である巴殿にも、ようやく子どもらしい姿が見えましたな。狩猟の先祖を持つ、この斎藤の腕をとくとご覧あれ」
斉藤は、抱えていた駒王丸を小枝に預ける。
「お二人には、火おこしをお願いいたす。きっと大きな獲物を捕らえてきますゆえ」
「お待ちしてます。御武運を」
小枝の声に、斎藤は笑った。
「そんな大仰なことにござらん。食料を調達してくるだけのこと」
斉藤は山の中に分け入る。
巴もそのあとに続いていった。
「巴殿」
後ろの気配に気づき、斎藤は振り向いた。
「巴殿は休まれよ。猪に気づかれると厄介ゆえ」
「邪魔はしない。狩りを見せてほしい」
「邪魔はしない、か」
並の童なら狩りの邪魔だが、巴なら役立つかもしれない。
本来なら、狩りは団体戦だ。
協力者がいれば、成功確率もあがる。
「あい分かった。ならば、某の命令に必ず従ってくれることを約束されるか」
斉藤の言葉に、巴が頷く。
「では最初の命令にて申す。少しでも某についてくるのが困難に感じた場合は、速やかに道を引き返すように」
再び、巴が頷く。
斉藤はそれを確認し、ぐんぐんと奥に入っていく。
齋藤に迷いがない。
それは巴の身体能力、判断能力への信頼でもある。
「猪もまた命なり。命あれば生活あり。生活あれば習慣あり。習慣を追えば、必ず射止めん」
歩幅を変えず、斉藤はそう言った。
独り言のようだが、巴に投げかけた言葉だ。
「巴殿には、ちと早かったか?」
斉藤にそう言われて、巴は顔を横に振った。
「貴殿もまた、利発な子だ」
斉藤は満足そうにうなづく。
実は巴は斎藤の言葉がよくわからなかったが、知らないと思われるのが癪なので、首を振っただけ。
巴は負けず嫌いだった。
同時に、言葉で分からずとも、見ればわかるだろうという自信もあった。
「まず方角を見る」
斉藤は月を指さした。
「三日月の弓の部分(光の当たる部分)から、お天道様(太陽)の位置を知る。ならば、南はこちらだ」
斉藤は進行方向を指す。
「南に猪がいるとなぜ分かる」
巴が不思議に思って聞くと、
「猪も寒いのが苦手にて。日当たりの良い平地を好む」
やがて突き進んでいくと、大きな水たまりがあった。
「近くなってきたようだ」
「これは?」
「ヌタと言って、猪の洗い場である」
巴は、へえ、と感心した顔でヌタを見つめる。
巴にはやはり、大きな水たまりにしか見えない。
「ふむ。これだな」
ヌタから数町(数百メートル)離れたところに、笹の葉が積み上げられたものがあった。
「これは、ねぐらか?」
「よくわかりましたな」
猪の寝る場所を、斎藤はあっという間に見つけた。
巴は感心した。
「斎藤はなんでも知っているのか」
斉藤は笑いそうになるが、声を抑える。
「知っていることは知っていますな。知らないことは知りませんな」
「当たり前のことだ」
巴ははぐらかされたような気がして、不機嫌な顔をした。
「そんな顔をされるな。某にも知らないことがたくさんあるというだけのこと。ただ狩猟のことについては、人よりも多くのことを知っている」
「斎藤が知らないことはなんだ」
「そうだな」
斉藤は一瞬考えて、
「たとえば、某は貴殿のことを何も知らない」
「わたしは、わたしだ」
「しっ」
斉藤が指を口に当て、静かにするように言う。
巴はそれの意味を理解した。
猪だ。
姿が見えるわけではない。
音と鼻息から、それと分かるだけで、詳しい場所までは分からない。
でも斎藤は弓を取り出した。
矢をはめ、ゆっくり弦を引く。
無理だ、と巴は思った。
これで弓を外せば、猪は逃げていく。
その先に駒王丸がいれば、襲うかもしれない。
中途半端に当たってしまったほうがもっと始末に負えない。
こちらに場所が分かるどころか、自分の身を守るために、こちらを攻撃してくるだろう。
山の利は向こうにあるばかりか、力も、五感も、はるかに向こうが上なのである。
でも口には出さなかった。
斉藤が静かにするように命令した。
命令に従うように約束したから。
でもそれ以上に、この狩りを邪魔してはいけないと、巴は思った。
弦を引いたまま、斎藤は待ち続ける。
巴は矢の方向だと思われる暗闇を見続ける。
だいぶ、長い時が経ったような気がした。
月の光が、差し込んできた。
さきほどのねぐらに、枝葉を抜けた光が当たった。
その差し込んだ光の先には、なんと猪が横たえていた。
今、と巴は思った。
そう思うより前に、斎藤の矢は放たれていた。
右目に突き刺さる。
猪は嘶いた。
斉藤は、すぐさま次の矢を取り出す。
猪は立ち上がり、こちらを向いた。
距離は近い。
矢をはめる。
猪はもう動き出している。
矢を引く。
もう1尺もない。
だが斎藤はさらに強く引く。
もう何寸。
矢は放たれた。
矢が空気を切る音なんか聞こえなかった。
近すぎたからだ。
猪の眉間に矢が突き刺さる。
猪の断末魔が、黒い山に叫び渡った。
どう、と地響きを立てて、猪が倒れこんだ。
その砂ぼこりが、巴に降りかかる。
「斎藤殿」
巴は興奮した。
「斎藤殿、斎藤殿、斎藤殿」
巴は斎藤に抱き着く。
「おやおや。童のようなことをなさる。怖かったかな?」
抱きついている巴の頭をなでる。
「なぜ、月が差し込むことが分かったのだ?」
ほほ、と、斎藤は笑った。
好奇心の強い子だと思った。
「なに。お月様も歩きなさる道が決まってござる。お月様が、猪のねぐらに顔を出すのを待っただけのこと」
「猪がなぜ、このねぐらに戻ってくると思ったのだ?」
「猪は、だいたい決まった場所しか居りません。いずれ帰ってくるので、それを待っただけのこと」
「待ってばかりだ」
「狩りとはそういうものにて」
ふう、と斎藤は息を上に吐く。
汗ばんだ息が、夜空に舞う。
「なんとか、成功しましたな。活きが良過ぎて冷や汗がでましたが、その分、きっと美味に違いませんぞ」
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