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 -2 『半人前』

「あーあ。せんせーがもっと寝てくれてたらあのままずっと寝れたのに」

「俺が悪いみたいに言うなよ」

「せんせーが悪いんだもん。サチの幸せを邪魔して」

「起こされたくらいで不幸になるなら、世の中の社会人はみんな不幸だな。お前は気楽でいいもんだ」


 赤く腫れたおでこを摩りながら理不尽な怒りをぶつくさ呟くサチに連れられ、俺は別室に移動した。


 自室とまったく同じような間取りの部屋の真ん中で、お膳の上に綺麗に並べられた朝食が用意されていた。


 焼き魚に梅干などの漬物、海苔、そして生卵。

 質素だが、どれも白ご飯との組み合わせが抜群な食欲をそそるものばかりだ。


 それに加えてサラダや冷奴、たまご焼きといった惣菜が並ぶ。形が整っていて見た目からしても美味しそうだ。


「あ、おはようございます」


 おひつをよそってご飯を茶碗に取り分けてくれていた女将さんが俺に気づいて会釈をした。


「すみません。大したものはご用意できていないですけれど」

「いやいや、十分ですよ。すごく美味しそうです」


 女将さんの手前の世辞ではない。

 旅館にいくと、どういうわけかどんな食事も魔法のフィルターをかけたように美味しそうに見えるのだ。


 実際、口にしてみると、普段の生活でもよく食べていたはずのものでも少し違って感じることがあるくらいだ。


 俺は台の前に腰掛けると、目の前に並ぶ料理を見て喉を鳴らした。


 女将さんが白ご飯を目の前に置いてくれる。

 なんてことない白米だが、一粒一粒のてかりすら美味しそうに見えてくる。


 俺は早速手を合わせて「いただきます」と朝食に手をつけはじめた。


「悠斗さんを呼ぶのは終わったのですから、サチは次のことをしてください」


 女将さんが俺のお茶を入れながら、案内を終えて部屋の隅で立ち尽くしたままだったサチに言う。


 彼女の俺への呼び名は、女将さんからそう呼んでいいかと頼まれたものだ。

 いつまでになるかわからないが仲居たちに付き合うことになったわけで、ただ『お客様』と呼ぶには味気ない、という理由だった。


 どうにも引っかかるところはあるが、どうせ呼び方で困ることはないのでそれを了承した。仲居たちに関しても、お互いに呼び方は自由ということになっている。


 女将さんの言葉に、しかしサチは小首を傾げる。


「……次ってなに言われたっけ」

「もう。残ってるお洗濯でしょ」

「ああ、そうだった!」


 どたどたと音を上げながら大慌てで部屋を飛び出したサチを見て、女将さんは嘆息を漏らしながら頭を抱えていた。


「すみません、本当に。まだまだ未熟な子で」


 苦笑を浮かべて頭を下げてくる女将さんの苦労も察するが、ある意味では歳相応な様子だなあ、と俺は少しの微笑ましさを感じていた。


 と、ちょうどサチと入れ替わるようなタイミングでナユキがやってきた。両手にお盆を持っていて、そこに蓋を被せた茶碗を乗せている。


「起こしに行ったサチを待っている間、お味噌汁が冷めてしまったので新しいのを入れてきました」


 女将さんが教えてくれた。

 なるほど、サチはそれだけ俺の布団で長いこと寝ていたということか。


 どこかたどたどしい足取りでナユキが俺の前にやって来る。

 スロー再生でも見ているかのようにゆっくりと膝を曲げて腰を下ろした。


 心なしか手が震えているように見える。

 部屋に入ってから一度も俺と目を合わそうとしていないあたり、また昨日のように人見知りを発揮しているのだろう。


 ――まあ、まだたった一日だもんな。


 慣れないのも仕方ないかもしれないが、それにしても一挙手一投足が非常にゆっくりだった。


 床に置いたお盆から味噌汁の茶碗を両手で掴み、お膳の上にそっと置く。

 悲壮に溢れたような表情で必死にこなしているのを見ると、余程辛抱して頑張っているのだろう。


 その健気さに俺は思わず心を打たれ、つい迂闊に口を開いてしまった。


「ありがとう、ナユキちゃん」

「……っひゃう」


 呼ばれて反射的に俺を見たナユキの目が、ついに俺と合わさってしまった。


 しかもお膳台を一つ挟んだだけの至近距離。


 すぐ間近で俺と目を合わせてしまったナユキは、途端に顔を真っ赤に上気させてしまった。それから大慌てに片手で鼻をつまむ。


「へう」


 可愛らしい声が漏れる。

 だがそれで力んでしまったせいか、茶碗を持ったままのもう片方の手を思い切り振り下ろしてしまい、まるで叩きつけるようにお膳へと置かれた。


「うわっ、こぼれる!」


 俺は咄嗟に口に出してしまった。

 しかし、そのわりに茶碗から味噌汁が一滴すら飛び出ることはなかった。


 まさかと思い蓋を開ける。

 案の定、そこには昨夜の湯呑みのごとく綺麗なまでの冷凍味噌汁が完成していたのだった。


「この子ったら、また!」

 気づいた女将さんがいきり立って声を荒げる。


 彼女の語気の強さに、ナユキは立ち上がって俺と女将さんから離れるように後ずさっていった。おびえた様に顔をひしゃげ、目尻には涙まで浮かべている。


「今度は気をつけるようにってあれほど――」


 今にも顔を般若面に変えて叱り付けようとしている女将さんに、俺はたまらず「まあまあ」と言葉を割って入った。


「きっと他のを食べてるうちに凍りも溶けますよ。冷たい味噌汁っていうのも案外嫌いではないですから」


 実際に嫌いではないという本音半分、涙ぐむナユキへの気遣い半分。


 たしかに物をすぐ凍らせてしまうのは大問題だが、さすがに責めてばかりでは申し訳なくなってくる。怒り続けると萎縮して、よりいっそう悪化する場合だってあるものだ。気弱な彼女ならばそれも尚更だろうと思った。


 それに、彼女へ俺が不用意に声をかけてしまったせいでもある。ちゃんと頑張っている子を褒めるこそすれ、頭ごなしに怒るのはかわいそうだ。


「俺は気にしてませんし。それに、そういったのが上手く改善されるために俺がしばらく付き合うことになったんですよね。じゃあ、すぐに直せって言うよりも、次は頑張ろうって声をかけてあげる方がいいのかな、って」


「そうですか? まあ、悠斗さんがそれで良いのしたら構いませんけれど。でもナユキ。反省はしていてくださいね」


 そう言って女将さんはようやく表情を和らげてくれた。

 ナユキも零れ落ちそうだった目尻の涙を引っ込めて、安堵した様子で女将さんに頷いていた。


 それから、ちらり、と俺を一瞥する。

 ふと遠目に視線が合うと、彼女は咄嗟に顔を背け、そのまま音もなく小走りで部屋を出て行ってしまった。


「まったくあの子ったら。お礼も言わずに帰るなんて。せめて別のお客様から逃げ出すようなことだけはしないでほしいものです」

「相当な人見知りみたいですね」


「なにぶんこんな山奥だと顔見知り以外の人と会うことのほうが少ないので。治すにしてもあまり機会がなかったのです。でも、本当はとても優しくていい子なのですよ。それだけは理解して、どうか嫌いにならないであげてほしいのです」


 そう言いながら、去っていったナユキの姿を見送っていたお上さんの目は、とても慈しみに溢れる温かみがあった。


 他の子も含め、女将さんはナユキたち仲居のことがとても大好きなのだろう。

 彼女たちのことを話すときの声尻がよく弾んでいて、ひしひしとこちらにまで伝わってくる。しかしそれも空回って、指導では厳しくあたってしまうのだろうか。


「きっとこれからよくなりますよ」


 俺の励ましの言葉に、女将さんは優しく微笑んで頷いてくれた。


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