-8 『一歩目』
その日から、俺の考えた案を実行するために仲居たちの特訓が始まった。
女将さんを助けるには一にも二にも仲居娘たちの成長は不可欠だ。
彼女たちが一人前になることができれば自然と女将さんの負担は減っていくことだろう。
そのため俺は、まず先に接客の指導を三人に行った。
とはいえ俺も素人だ。接客のいろはなど学んだことがない。
そのため旅館の古いパソコンを使って接客業の基本やマニュアルなどを学び、仲居娘たちに伝授していった。ウェブサイトを一つ開くたびに十秒以上待たされる苛々も、女将さんのためだと思えば我慢できる。
しかし素人が少し教えたくらいでは、やはり一朝一夕で上達するようなものでもないのが現実だ。本当ならば一ヶ月はかけて勉強させていくべきだろう。だがそんな長い時間も待ってはいられない。
そこで俺の考えた計画の本質は、彼女たちの接客の向上だけではなかった。
女将さんの負担を減らし、なおかつ問題の元を根絶する。
つまり、強面たちに直接あることを仕掛けるというものだった。
それこそが俺の考えたメインプランである。
計画を細かく立てて、仲居娘たちに役割を用意し、それぞれ何をするかを決めていく。
俺の采配で大体のことが決まってからは、それぞれが自分の仕事の合間に時間を作って、そのメインプランの練習に励んでいる。
どういった結果に繋がるかはまだやってみなければわからないが、やる意味くらいはあるかもしれない。彼女たちのためにも、女将さんのためにも、きっといい方向に進めるだろう。
必要な小道具は従業員の妖怪たちが作ってくれている。
彼らも今回の作戦にはとても好意的だ。旅館の全員が一丸となって、女将さんのために何かをしたいと思っている。そしてそれは俺だって同じだ。
だがそれだけでは足りない。
もっと協力を求めなければならない。
そのためにも人が要る。
ここの従業員じゃない、もっと別の人が。
「せんせー、足元気をつけてねー」
旅館を出た俺は、サチに先導されながら森の中を歩いていた。廊下の片隅でサボっている彼女を見つけて俺が頼み込んだ。
旅館の外に出るのは久しぶりだ。
ずっと館内で怠けていたせいで体が重いかと思ったが、思いのほか足取りは軽く、来たときよりもずっと山道が楽に感じられた。
「ここねー、たまに蛇いるから」
「うわ、マジか」
「たまに熊もいるよー」
「……マジか」
洒落にならない。
しばらく細く続いた獣道を進んでいると、県道のような崖際の道に出た。
「ここらへんなら大丈夫だって聞いたよ」
「見てみるか」
俺はポケットからスマホを取り出す。アンテナの表示を見た。圏外だ。
「もうちょっと歩いてみよう」とスマホを片手に道路沿いを歩いていく。
やがて一軒の古ぼけた雑貨屋が見えてきた辺りでようやく電波が繋がった。
ここなら大丈夫だろう。
スマホの画面を操作し、電話帳からあるページを開く。
オカルト研究会の会長のページだ。そして、俺が失恋した相手でもある。
ダイヤルの通話ボタンに添えた指が微かに震えた。
躊躇いたくなる。
振られたばかりなのだ。
今更どんな顔をして何を話しかければいいのかわからない。
逃げたい。
関わりたくない。
でも、俺は――。
「ちゃんと、前に進まないとな」
覚悟を決めて通話ボタンを押した。
たった数回のコールが何分もかかったように思えた。
『もしもし』
耳元に女性の声が響く。会長だ。
凛とした声は、以前となんら変わりない平静としたものだ。
「おはようございます、会長。いきなりすみません」
よかった。
俺の声は震えていない。大丈夫そうだ。
『構わないよ。どうしたんだい』
「実はお願いがありまして」
『お願い? この前の件に関係することかい』
どきり、と俺の心臓が飛び跳ねた。
告白のことを言っているのは間違いなかった。
「……いえ、違います」
『じゃあ、なにかな?』
「それは……」
言葉が詰まりそうになったのを、俺は必死に吐き出した。
「サークルの掲示板を見ました。次の集会の場所を探してるって。宿を探してるって。その場所、俺の世話になってる旅館を選んでもらえませんか」
電話越しに、俺は深く頭を下げた。
『随分と急だね。それに関してはもうほとんど決定してるんだ。隣県の温泉宿でね。近くに放棄されたトンネルがあって心霊現象が多く起きる場所らしい。その調査などもかねて向かう予定なんだ。もうとっくに日取りも決まってる。明日さ。宿の予約も終わっていて、今からでは多額のキャンセル料がかかってしまうよ。それでも、旅館を変更しろって言うのかい』
「そんな、もうですか」
あまりにも早い。
だが、ある意味では好都合だ。
絶望半分、希望半分。
背筋を流れた冷や汗の感触に、けれどもはっと心が冴える。
「それでも、お願いできませんか」
『キャンセル料はどうするんだい。他のメンバーへの周知だって必要だよ。もう明日なんだ』
「キャンセル料は支払います。どうにかして用意しますから。周知の方は……会長に、お願いできませんか。俺には他の人の番号もわからないですし。もしくは教えてもらえれば俺から連絡します」
『随分と無茶なことを言ってくれるね。自分が何を言っているのかわかっているのかい』
「わかってます。変な話だって、急な話だって。でも――どうしても手助けしたい人たちがいるんです。だから。だから……」
勝手に言葉に熱がこもる。
会長にはなんのことだかサッパリだろう。
けれども、少しでも俺の必死さが届いて欲しかった。
俺にできるのなら、どうにかして女将さんや仲居娘たちの大事な旅館を助けてやりたかった。
無茶なことだとわかっている。
断られても仕方がないとわかっている。
けれども、そのためには会長の力が必要なのだ。
数秒の間があった。
重たい沈黙だった。
永遠にも思うような静寂の後、やがて通話口の向こうからぼそりと言葉が届いてきた。
「――わかった」
「え?」
思わず俺は素っ頓狂な声を漏らしてしまった。
「呑もう、その提案」
「いいんですか」
「イヤなのかい」
「いや、その。無茶なお願いですし、てっきり駄目なのかと」
『そうだね。こんなふざけた注文をしてきたのはキミが初めてだよ。ついこの間に変なことを言ってきたかと思えば、今度は無理難題ときたものだ。いったい、キミはどれだけ私の平静を振り乱せば気が済むのかな』
「す、すみません」
ふふ、と会長の微笑が聞こえる。
この電話越しで感情的な機微が見えたのは初めてだ。
「事情はわからないが、キミの提案を呑もう。詳しい宿の住所などをメールで私宛に送っておいてくれるかな。他のメンバーにも伝達しておこう」
「本当ですか」
『うん。そちらの宿の手配だけはしてもらえるかい。私を含めて十人』
「わかりました。たぶん大丈夫だと思います」
『それじゃあよろしくね』
「きっと、会長にも後悔はさせませんから」
『ほう。言ってくれるね。それじゃあ明日は期待しているよ』




