-10『家族のかたち』
次の日、クウの両親は朝早くから身支度を済ませて部屋を出た。チェックアウト期限の十時よりも二時間以上早かった。
「もっとゆっくりしてくださっても結構ですのに」
「ありがとう、女将さん。けれどももう大丈夫」
気遣う女将さんに、クウの母親は気丈な笑みを浮かべて答えていた。
女将さんの言葉にはおそらくクウのことも含まれているのだろう。
いなくなった我が子を尋ねてやってきたのに、結局、クウが直接姿を現すことはなかった。昨夜の風呂のことを知らない女将さんにすれば、余計に歯がゆい気持ちを抱いていることだろう。
口惜しげな表情を浮かべる女将さんを前に、クウの母親はひたすらに感謝の言葉を添えて微笑んでいた。
「たった一泊だったけれど、とても楽しいひと時を過ごさせていただきました。温泉も非常に心地よく、嬉しいことばかりで心が弾む思いでした。本当に、ありがとう」
「いいえ。こちらこそ、もう少し早くいらっしゃることを伺っていれば、ご用意できるものもあったでしょうに。申し訳ありませんでした」
「そんな謙遜をなさらないで。私たちは、本当に、心から感謝しているのです。この旅館がとても優しい場所であってくれてよかった。そう思っています」
「そんな。私たちは何も」
「これからもよろしくお願いしますね」
クウの母親の最後の一言は、目の前にいる女将さんを通り越して、物陰で様子を伺っていた俺とクウの元にまではっきりと届いていた。
「だってよ、クウ」
二人がやって来た時の様に顔だけを覗かせて様子を窺っているクウに、俺も同じように顔を出しながら言った。俺たちの下には、更にサチとナユキの顔が続いている。
「クーちゃん、お母さん帰っちゃうよ」
団子のように顔を並べさせたままサチが声をかける。ナユキも言葉には出せていないが、おろおろとしきりに視線をクウへ向けている。
そんな二人の気持ちを知ってか知らずか、それでもクウは何も言わず、ただ静かに両親の姿を眺めていた。
料金の精算を終え、クウの両親たちがロビーの前で靴を履く。見送りに出る女将さんにクウの母親はもう一度振り向いた。
「お願いがあるのだけれど」
「なんでしょうか」
「今回は会うことができなかったけれど、もしあの子に伝えられるのなら、『またくるわね』とだけ伝えてくれるからしら」
「親が様子を見に来てやったのに顔も見せん親不孝者じゃ。野畑に行き倒れようがわしの知ったことではないわ」
クウの父親が履いた下駄をかつんと鳴らし、袴の袖から煙草を取り出す。
しかしすぐさまクウの母親に取り上げられ、不服そうに眉間にしわを寄せた。
手持ち無沙汰になり、腕を組んで背を向ける。早く帰るぞ、と背中越しに語っているのがわかる。
クウの母親が荷物の鞄を持ち、女将さんが膝をついて見送ろうとした時だ。
「あ、あの。またお越しください。こ、こんどは、ワタシも精一杯にご奉仕させていただきます」
俺たちが隠れていた物陰から突然飛び出した。
クウだった。けれども姿は、前にも変化した別人の女性の格好だ。いつの間にか顔を引っ込めてこっそり変化していたらしい。
帰り支度を済ませた両親の前に勢いよく飛び出したクウは、女将さんの隣に大急ぎで膝をつき、深く頭を下げていた。
突然のことに女将さんは目を丸くしていた。
母親も驚いた風に表情を強張らせてクウを見つめる。
だがその表情は次第に柔らかい笑みへと変わっていった。
まったく動じなかったのはクウの父親だ。
彼は背を向けたまま顔だけを振り返らせると、刺す様な鋭い目つきでクウを眺めている。
そういえば、変化しているとはいえ、クウが父親の前に出たのは初めてだ。
父親は口ぶりからしてもよほど厳格そうな雰囲気のある人だ。母親が優しき良妻とすれば、父親は一家の長という言葉が似合う威厳のある佇まいをしている。
母親はクウに対して好感の色を見せてくれていたが、父親はどうだろうか。
いまだ険しい表情しか見せない父親の様子に、傍から見ている俺ですら固唾を呑む想いだった。
数刻とも思えるような一瞬の緊張が過ぎ去り、やがてクウの父親は顔を背けて鼻を鳴らした。
「二度と来ないわい、こんなところ」
「ふふふ、老人のたわごとです。気にしないでくださいな」
クウの父親の悪態を母親が笑って流す。
硬軟の按配がいい夫婦なのだとよくわかる。
そんな二人のやり取りを、クウは微笑をこぼして受け取っていた。
◇
女将とクウに見送られ、夫婦は旅館を後にした。
「ふふっ、とても良い場所ではないですか。ご安心しました?」
「なにを言っておるか。わしはたまの療養に来ただけじゃ」
「ほんと、素直ではないこと」
「なんのことじゃ」
「いいえ、なんでも」
帰路についた二人の大きな談笑が、俺たちの方にまで漏れ聞こえてくる。それは、わざと届かせているのか。
「人を化かすのが狸の性分じゃ。わしの目を化かしきれんような半人前は、わしら一族に必要ないわ」
「あらあら。随分とお厳しい」
遠ざかっていくクウの母親の笑い声と、二人の揃った足音が、やがて木々のざわめきに溶け込んでいった。
小さくなるその背中を、クウはひたすらに見送り続けていた。
見えなくなるまで、ずっと、ずっと。その背中はしゃんと伸びていて、最後に一度だけ深く頭を下げた。
初夏の朝の、ほんの一時の逢瀬。
ただそこには、言葉だけではない、数えくれないくらいの家族の会話が広がっていたように思えた。
「いいもんだな、家族って」
「うん、いいもんだよー」
傍観していた俺の呟きに、サチが元気よく真似した風に頷く。
若干、顔をにやつかせながら俺の言い方を真似していて、むっとしたので頭を小突いてやった。しかしサチは「えへへ」と舌を出し、反省する様子もなくクウの元へと飛び出していったのだった。




