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 -6 『混浴』

 クウの母親と話してから、俺の頭の中にはずっと疑問ばかりが浮かんでいた。


 わざわざ子どもを追いかけてやって来て出会うことができなかったのに、どうしてそこまで悲観せずいられるのだろう。


 噂を頼りに探しに来たくらいなのだから無関心というわけでもないだろう。

 それなのに、クウが自分たちから逃げ続けることを肯定するなんて、肉親としてそれでいいものなのだろうか。


 どんな言葉を取り繕ってでも戻ってきて欲しい。親ならばそう思うものではないのだろうか。


 所詮、妻子も持たない俺がどれだけ考えたところで地に足着かない思考の堂々巡りが続くばかりだった。


 夕食後に浴場に向かった俺は、たった一人きりの露天風呂を満喫しながら、満天の星が広がる夜空をぼうっと見上げた。


 外灯もない山奥だけに星がよく見える。

 星座の知識には明るくないが、きっとはくちょう座だろうと思う大きな星の十字を見つけた。


 今日は夜風が強く、シーイングが悪いせいで星たちはそろってゆらゆらとか細い光を揺らしている。


 ゆっくりと入る温泉はいいものだ。

 傷心旅行に温泉と言えば定番だが、たしかに、広い湯船に浸かって心地よく身体を温めていると、心ごと全身がほぐされていく。


 俺が溜め息をつきながらくつろいでいると、


「うーーーどばーーー!」


 唐突に騒がしい声が聞こえ、眼前を激しい水飛沫が覆った。

 飛び散った熱い温泉が目にかかる。飛沫が口に入って塩辛さを覚えた。


 急に何なんだ、と顔を擦る。

 すると目の前には、タオルだけを纏って湯船に浸かるサチの姿があった。


「な、なんでサチが」

「ほへ?」

「いや、ほへ、じゃなくて」


「なんでって言われても……ここ、三日に一度は混浴になるんだよー」

「ええっ?!」


 初耳だ。


 俺が入っていた露天風呂はこの旅館で一番大きい湯船のある場所だ。


 通常の男性浴場の小さな露天風呂からさらに扉を伝ったところにある巨大な浴場だった。ここだけは何故か敷居で区別されているとは思っていたが、まさか混浴になっているとは。


 サチが驚かせようと嘘をついている可能性も考えたが、


「……そういえば昨日は鍵がかかって入れなかったな」


 清掃中か何かかと思っていたが、一日代わりで男湯、女湯、混浴と変わっているというわけか。


「そんな説明受けてないぞ」

「あれー、言わなかったっけ。ちゃんと言っておけっておかーさんに言われてたのになー。まあいいでしょー。些細なことだしー」

「いや、重要なことだ!」


 それはつまり、もしかすると女将さんとも混浴できていたかもしれないということだ。


 彼女もサチのようにここの温泉に入っている。

 時間帯は主に業務のない夜中らしい。彼女が混浴の方に来るかはわからないが、可能性があるのならば俺は何時間でも待つこともやぶさかではない。


 迫真の表情を浮かべる俺に、サチは「よくわかんないや」と呟いた。


「最初の担当はユキちゃんだったし、仕方ないよー。ユキちゃんはなゆなゆしてるからねー」

「なんだよ、なゆなゆって」


 ナヨナヨしている、とナユキをもじっているのだろう。


 確かにナユキを上手く表せているような気もする。

 それだけ聞くとただの罵声のようだが、言葉の緩さからしてもサチに悪気はないのだろう。


 良くも悪くも歯に衣着せぬ素直な性格ということだろうか。


「ユキちゃんはなゆなゆしてるし、クーちゃんは恐がりだからなー。サチがしっかりしないとなー」

「どんな冗談だ」

「むー、冗談じゃないもんー!」


 サチが腕をはたいてばしゃばしゃとお湯を掻く。


 天真爛漫な無邪気さは微笑ましく思うが、どうにも騒がしすぎる。

 楽しそうにはしゃぐサチの笑い声に、耳を劈かれるような気分だ。


「それにしても」とサチが声調は衰えずに動きだけを止めて言った。


「クーちゃんはどうしてあんなにお母さんたちに会うのがイヤなんだろう」

「事情があるんだろ。家庭の事情が」

「家庭の事情かー。サチ、お母さんもお父さんもいないからわかんないや」

「え……」


 明るい調子のまま、サチは背を向けてどこか遠くを眺めていた。


 そのせいで表情はわからない。

 けれども踏み込んではいけない一線を越えてしまったような気がして、俺は気まずさに心を張り詰めた。


 まさかサチにも深い家の事情があるのだろうか。


 いや、あってもおかしくはない。

 まだ幼いのに旅館に住み込みで働いているのだ。


 本当ならば学校に通って公園で遊びまわっていてもおかしくない年齢だろうに。いくら妖怪と人間とで差異があるとはいえ、年端もいかない少女が親元を離れて働いているのは普通とはいえないだろう。


 気安く触れてしまったかもしれないと後悔した俺は、「悪い、サチ」と謝った。


 しかし当のサチはというと、けろりとした表情で振り返り、歪みのない相変わらずの笑顔を浮かべていた。


「え。なにが?」と間抜けな声で尋ねてくる。


 ああ、そうだ。と俺は内心で苦笑した。


 出会ったときからずっとそうだ。

 どんなときだって底抜けに明るい。それがこのサチという少女だった。


「いや、なんでもないよ」と俺は平然と返す。

 するとサチは「そっか」とまた満面の笑みを咲かせた。


 それから、二人で並んでのんびりと夜空に浮かぶ月を眺めた。

 その近くには星があって、月の明るさであまり多くは見えなかったけれど、知っている星座を言い合ったりして遊んだ。


 サチが温泉で泳ごうとするのをなだめたり、機関銃のように話題を持ちかけてくるのを話半分に聞いて相槌を打ったり。


 騒々しい時間だったが、決して悪いものではなかった。


「サチはね、一年くらい前までの記憶しかないんだ」


 はしゃぎ疲れてやっと大人しくなったサチが、俺のそばに腰掛けて言った。


 長湯のせいで血行が良くなっているせいか、サチの横顔は火照ったように赤く、子どもとは思えないような艶かしさがあった。


「それよりも前のことはなにも覚えていないの。気がついたらよく知らない道を歩いてて、迷っていたら偶然女将さんに出会ったの。それからこの旅館に連れてこられて、一緒に住むようになったんだ」

「へえ、そうなのか」


「サチはね、なんの妖怪かはわからないよ。でもこれだけはわかる。サチにとって、女将さんがおかーさんみたいな人なの。サチね、右も左もわからずに迷ってた時、おかーさんに会った瞬間にすごくほっとしたんだ。心配してくれて、優しくしてくれたおかーさんが嬉しくて、心がぬくぬくしたんだ。それでね、よく知らないけれど、母親ってきっとこんなんなんだなーって思ったんだ。だからクーちゃんもお母さんに会えばいいのに」


 メトロノームのようにサチの身体が揺れる。

 記憶がないという思いのほか重たい過去があるのに、明るい声調からは少しも気にしている様子はない。


「記憶がなくて不安じゃないのか」

「ううん、ないよ」


 清々しいほどの即答。


「だって、サチは今のことでいっぱい楽しいから。昔のことを考えるよりも、今のことを考えるほうが楽しいもん。昨日の晩御飯を思い返すよりも、今日の晩御飯はなんだろうなーって考えたほうが……おっとっと、よだれが」


 蕩けた顔で口許を拭うサチの締まりの悪さに、思わず苦笑を浮かべてしまう。

 だがサチのそんなひたむきなまっすぐさがとても心地の良いものに思えた。


 ――昨日よりも今日。


 ひたすら前を向いた言葉。


 こうなりたい。こうであれたら。

 俺はきっと、失恋なんかで凹むこともなかったのだろう。


 能天気に振舞うサチを見ていると、真面目に考えていることが馬鹿らしく思えてくる。


 いや、俺のことなんて本当に馬鹿らしいことだったのかもしれない。

 くよくよ悩んでいたところで思考は行き詰るだけ。自分を卑下することに躍起になるくらいなら、いっそ何も考えずに目の前の楽しいことを存分に楽しめばいい。


 そう教えられているようで、なんとも歯がゆい気持ちになった。


 せんせーだなんて呼ばれて、彼女たちの接客練習に付き添うことになって。

 てっきり大人の俺が指導する立場だと思っていたのに、あどけない一人の少女にこれほどまで教えられるとは。


「本当に。すごいよ、サチは」


 ぎりぎり聞き取れないくらいの声で俺は呟いた。


 サチは首をかしげて不思議がっていた。


 さすがにもう一度は言えない。

 歳の離れた子どもに言うにはどうにも恥ずかしすぎる。


 気後れてもう一度言いあぐねていると、サチが「うにゃあーー!」と叫んで立ち上がり、両腕をまっすぐ伸ばして湯面に倒れこんだ。激しく飛沫が上がり、熱い水滴が俺の顔にかかる。


「おいこら、なにすんだよ」

「あはははははっ」

「笑ってるんじゃねえ……って、サチ。タオル、タオル!」


 飛び込んだ弾みでサチのタオルの結び目が解けてしまったらしい。

 真っ白な薄地のタオルがゆらゆらと浮かび、その向こうには濁り湯でぼやけた少女の裸体が横たわっていた。


 慌てて俺は顔を背けた。


 さすがに小学生くらいの年齢の幼女に欲情することはないが、とはいえ体つきはしっかりと女の子だ。


 かすかな胸の膨らみや腰のくびれ、小ぶりに膨らんだお尻が目に入ってしまい、見てはいけない背徳感に駆られた。若いだけあって艶やかで綺麗な肌をしている。


「どうしたの、せんせー」

「タオルが外れてるんだよ。さっさと巻け」

「あ、ほんとだ。いやん、せんせーのえっちー。あはははっ」

「この馬鹿……」


 色気もなく、ただの元気だけを振りまいて笑うサチに、しかし俺は自然と柔らかい笑みを誘われたのだった。


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