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 -4 『男は狼という風潮』

 廊下を歩いていると客室の前が騒がしかった。

 俺とは別の階の、クウの両親が泊まっている部屋だ。


「お料理をお持ちしましたー」

「こ、こら。サチ。ちゃんとしなさい!」


 どうやらサチと女将さんがいるらしい。

 夕食の用意をしているようだが、まるで遊んでいるかのようにサチが騒ぎ立てているようだった。


 少しは慣れたところにいた俺にまで漏れ聞こえてくるくらいだ。サチの声もそうだが、女将さんの怒号もひどい。


 仲居娘たちに少しでも経験をつませたいのだろうが、まったく前進の影も見えない様子に齷齪しているようだ。


「申し訳ありません、お客様。すぐにご用意いたしますので」

「ふん。はようせい」

「はい、ただいま。ほら、サチ。しっかりして」


 不機嫌そうに見えるクウの父親に、女将さんの声は悲壮が混じったように細くなっている。しかし肝心のサチはというと、わきゃわきゃと笑いながらはしゃぎ続けている様子だった。


 これでは一人前はまだまだどころか、接客をしているという自覚すら持てていないのだろう。年齢的に仕方ない部分もあるのかもしれないが、商売である以上言い訳にはしづらい。


 部屋に前を通り過ぎるついでに開かれたままの扉から中を覗き見ると、自分で敷いた布団に飛び込んで頬を摺り寄せるサチの姿が見えた。


 女将さんが慌てて引き離そうとし、そんな二人をクウの母親が微笑みながら眺めている。


「本当に申し訳ありませんお客様。お詫びは後ほどいたしますので」

「あらあら構いませんよ。賑やかでいいじゃないですか。ねえ、あなた」


 穏やかに微笑むクウの母親に対して、父親は鼻を鳴らして窓の外を見ている。


「こちらこそごめんなさいね。この人、いつも仏頂面ばかりで。素直じゃない性分だから、思ってもない言葉ばかり飛び出すの」

「馬鹿もの。うるさいわい」

「ほら、ね?」


 ふふっ、とクウの母親が笑う。

 余裕のある微笑は見ていて安心させてくれる力がある。これが母性というのだろうか。


 それからも、サチはまるで甘えるようにクウの母親へ何度も話しかけていた。


 友達であるクウの両親ということもあって興味が絶えないのだろう。

 女将さんの溜め息が絶えず聞こえてきそうで、俺は苦笑を浮かべながら部屋の前を後にした。


   ◇


「サチはほんと凄いよ」


 俺の部屋へ夕飯の準備にやってきたクウが言った。


「いっつもへらへら笑って、悩み事なんて何一つ無いような顔で暮らしてて」

「クウは向こうにいかなくていいのか」


 お吸い物やお刺身を説明しながらお膳に並べてくれているクウに俺が尋ねる。


 二人きりの時は、俺の画像を見せた女性ではなく、変化を解いた元の子どもの姿に戻っている。


「別に。はやく帰ってほしいね」

「そこまで親が嫌いなのか?」

「……そうだよ」


 ご飯をよそった茶碗を、わざとらしく音を立てて置いてきた。

 しかし少し言いよどんでいたところを見るに、その言葉が心からの本音ではないのだろうと感じた。


 家族というものはなんだかんだいって簡単に切り離せないものだ。


 たしかにクウの父親は厳格で恐そうな雰囲気があった。

 佇まいからしても古くからの伝統を重んじているように見受けられる。


 躾の厳しさから逃げ出したくなるというのは、反抗期に入り始めるクウの年齢からすれば自然なことだ。


 しかし本当に家出をして、更にはもう一年以上も帰っていないとなると、相当な決心の下に飛び出してきたのだろう。


「どういう事情かわからないけど。そうやって避け続けてたら、本当に帰れなくなるぞ」


 俺は自分で言って、自分に刺さったように心が軋んだ。

 大学のサークルのことが頭をよぎり、勘違いのようにすぐ掻き消す。


「いいよ。別に帰れなくたって寂しくない。一年も経って今更探しに来たくらいなんだ。どうせそこまで本気じゃないよ。きっと家の体裁のために、逃げ出したボクを捕まえに来ただけだろし。だからボクは帰るつもりはない。だってここにはサチやナユキも、女将さんだっているし――」


 言葉を止め、クウがこちらをちらりと見る。目が合うと途端に顔を赤らめ、


「お前はさっさと出てけ!」と、腋に挟んだお盆を振り回して喚いた。


「そんなこと言うなよ。ここじゃ少ない男同士なんだからさ」

「そ、そんなことを言って、またボクの身体を触る気だろ」

「いや、そんなわけないだろ。俺は女の子が好きな健常者だ。そんな変わった性癖は持ち合わせてない」

「嘘をつけ。この前だってボクのて、手を……それに抱きついてきたし」


 随分とソフトな触れあいでしかないとは思うが、クウは余程の破廉恥行為をされたとでも言いたげに高揚した声で叫んでいた。


 もちろんクウが言うような下心など俺にあるはずもない。

 だがここまで一方的に言われるとなんだか反発したくなってくる。


 なにより毎度必死になって言い返してくるクウを見ていると、からかいたくなる悪戯心が掻き立てられてしまうのだ。

 なんだろう、このもっといじめたくなる感じは。


 ――よし、ちょっとからかってやるか。


 両親が来てから随分と不機嫌面ばかり浮かべているし、少しはいい具合に表情も解れるだろう。


 俺は内心ほくそ笑んで立ち上がると、お膳の脇を通ってクウへと歩み寄った。


「な、なにさ。何で来るのさ」


 お盆を振るクウの手が早くなる。

 団扇のように風が当たってきた。


 心なしかクウの息は荒くなり、目の焦点も合っていないように見える。だがそれでも俺はクウへと近づいた。


 お盆が俺に当たるよりも先にクウが後ずさった。

 しかし後ろは壁ですぐに逃げ場を失ってしまう。

 退路を求めて辺りを見回すが、既に俺がもう目の前に迫っている。


 意を決したクウはまるで番犬のように歯をいきり立てて顔を凄ませて見せた。ぐるる、という唸り声が聞こえてきそうだ。


「クウって顔も声も女の子みたいだもんな。凄んだって恐くないどころか、むしろ可愛いくらいだぞ。そんな顔をしてると……俺が食っちまうぞー」


 俺が手をキツネにして口をパクパクさせ、茶化すように言う。


 なに言ってるんだ馬鹿。とでも詰られるだろうか。


 などと考えていた俺の予想はまったく外れた。


 俺の言葉を聞いて、気張っていたクウの強気は風船のように瞬く間に萎み、気弱に目尻を垂れさせてしまっていた。


 顔がこれ以上ないほどに真っ赤に火照り、湯気でも出そうなくらいになる。しまいには強く目を瞑り、


「……ひゃぅ」と小動物のようにか細い悲鳴を漏らした。


 まさか本当に襲われるとでも思ったのだろうか。

 いや、男同士なのだからそんなはずはないだろう。

 だが、クウの目尻にはかすかに涙が溜まっている。


 ――この空気、どうしたものだろう。


 本当に暴漢になってしまったような雰囲気に、気まずい沈黙が流れた。


「なーんてな、冗談だよ」と俺が笑い飛ばそうとした瞬間、しかし部屋の襖が開いて遮られた。


 顔を出したのはナユキだった。


 俺の背筋に冷や汗が流れる。


 タイミングが悪すぎる。

 冗談とはいえ、これではまるで俺がクウを押し倒そうとしているように見られてしまうではないか。


「ち、違うんだ、これは――」


 咄嗟に弁明しようとした俺だったが、しかしナユキの様子がおかしいことに気づいて言葉を詰まらせた。


 外から顔だけを覗かせたナユキはそれからずっと固まったままだったが、次第に顔を上気させていく。やがてクウに負けないくらいトマトのような真っ赤になる。


 その瞬間だった。


 急にバケツの水をひっくり返したかのような物凄い音が聞こえたかと思うと、そこにいたはずのナユキの姿が一瞬にして消えてしまったのだった。


「ええ?!」と思わず俺は扉へと駆け寄る。


 そこには仲居たちが着ている赤い着物と襦袢、白い足袋、そして真っ白な下着が落ちている。そこにナユキの体の痕跡は一切なく、どういうわけか足元が水溜りのようにひどく濡れていた。


「……ああ、やっちゃった。せっかく今まで我慢してたのに」


 冷静さを取り戻したクウが、やや距離を取って俺を警戒しながらやってくる。散らばった着物たちを見て頭を抱えて溜め息をついた。


「ナユキは極度に恥ずかしがったり興奮したりすると身体が熱くなって、水になって溶けちゃうんだ」


 耳を疑って、俺にはすぐに理解できなかった。

 雪女だから熱に弱い。身体が火照ると自分が溶ける。


 つまり、いま足元に溜まっている水はナユキということだ。

 もしかして彼女がいつも咄嗟に鼻をつまんでいたのは、これを我慢していたということか。


「な、なんだそりゃー!」


 クウを弄って一泡吹かせてやろうと思っていた俺が、一番みっともない仰天の声を上げて腰を抜かしてしまったのだった。

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