-6 『旅館一の問題児』
ほんのちょっとした親切心から困っているクウを助けるつもりだったのに、とんだハプニングを起こしてしまったものだ。
思えばこの旅館に来てからと言うもの、賑やかさには事欠かないほど騒がしい時間ばかり過ぎている。
三食のご飯が用意され、夜には洗濯されたふかふかな布団で眠ることができる。
小さな仲居たちが身の回りの世話などをしてくれたりするが、ふと独りになると、まるでぬるま湯に浸かり続けているような停滞感に襲われた。
いつまでここにいるのだろか。
いつまでここにいていいのだろうか。
旅館に来てからスマホは一度も鳴っていない。
誰に帰って来いと急かされることもなく、俺はただ、山の向こうに依然として存在する『現実世界』に身を背けているばかりだった。
いつかは帰らなければならないのだろう。
だが、その「いつか」のことを考えないようにしていた。
「うわわ、どいてどいてーー!」
突然、くぐもったようなけたたましい声が聞こえたかと思うと、廊下を歩いていた俺の横腹目掛けてサチが飛び出してきた。
そこは厨房に繋がる出入り口で、何故か彼女の口には焼き魚が咥えられていた。
ラグビー選手ばりの見事なタックルを受け、俺の身体はそのまま廊下へと倒されてしまう。
「いったーい」と、俺の腹の上に乗っかって倒れたサチが呻く。
彼女の口から焼き魚が落ち、粉々になった身が俺の顔に降りかかった。
「うわ、汚い」
「ああ、もったいない」
かかった焼き魚の身を振り払おうとする俺の手をすぐさまサチが制す。
そしておもむろに顔を近づけると、舌を伸ばして俺の上に落ちた焼き魚をすくい始めた。更には首元、肌蹴た浴衣の隙間に落ちた胸元まで。俺の肌に落ちた焼き魚を、小さな舌を使って舐め取っていった。
「いっぱい落ちちゃった」とサチは執拗に舐め取ってくる。
しかしこの状況はまずい。
俺の上にサチが跨り、身体をむさぼるように舐め回しているのだ。
これを誰かに見られれば変な誤解を与えかねないだろう。
――ダメだ。これはいろいろとダメだ。倫理的に、人間として、男として!
肌を這う舌先のぬるぬる感に、くすぐったさといやらしさを感じてしまう。
サチのような可愛い女の子に舐められていると言う事実に妙な興奮を覚えそうになった。
「サチ、いいからまずはどいてくれ」
「ええー。床に落ちたらもう食べられないよ」
「そういう問題じゃないだろ」
聞く耳持たないといった風にサチはやめなてくれない。
いよいよ焦り、俺の背筋に冷や汗が流れ始めた時だった。
横たわった視界の隅にすっと人影が現れる。
その人影は俺たちを見下ろし、凍りつきそうなほどに冷めた目つきで淡々と言い放った。
「……なにをしているのですか、お二人とも」
「ち、違うんです、女将さん」
鋭い目で見下ろしてきた女将さんに、俺はそう返すだけで精一杯だった。
◇
「……事情はわかりました。つまりはまたこの子が盗み食いをしていたんですね」
「また、ですか」
「これで五度目です」
眉間にしわを寄せて頭を抱える女将さんに、俺は哀れむ思いで苦笑を浮かべた。
どうやらサチは昼食の準備をしていた厨房に潜り込み、従業員に見つかって逃げ出していたところだったらしい。
あの後、サチを追うように出てきた厨房の従業員たちにも俺の痴態を目撃され、恥ずかしさで穴に隠れたい気分になった。
厨房の従業員たちも、例に漏れず妖怪だった。
真四角の体型をしたぬりかべの男。彼がここの板前だという。
いや、板前と言うかただの板のようだが。
他にも、長い首を伸ばして、献立の指示出しや試食を顔だけで駆け回っているろくろ首の女。紙切れのように薄い一反木綿が食材に身体を巻きつけて物を運んだりしている。洗い場で皿をひたすら洗い続けている老人は小豆洗いだろうか。
ここが妖怪旅館なのだと改めて思わされる。
彼らのような裏方の妖怪たちは変装もせずに仕事をしていることが多いらしい。人の視線に敏感で普段は表に出ないが、事情を知っている俺の前だからこそ今は姿を現しているのだという。
あまりに非現実な光景を前にして、少しずつ慣れ始めている自分がいた。
「いいですか、サチ。罰として下の川まで洗濯に行ってもらいます」
「ええー、やだー」
まったく悪びれる様子もなく頬を膨らませるサチのお尻を女将さんが引っぱたいた。いたっ、と声を漏らして、やっとサチは頭を垂らす。
「悠斗さんもよければご一緒にどうですか」
「え、洗濯ですか」
「いえいえ。その……」
珍しく女将さんが言いよどむ。
俺に向けていた視線を逸らし、頬を紅潮させながら口許を隠すようにして彼女は言った。
「お身体の方も、ずいぶんと汚れてしまっているようですし。水浴びでもどうかと思いまして」
そう言われ、俺は自分の胸元に視線を落とした。
先ほどのどさくさの内にいつの間にか浴衣の胸元がはだけていて、広い胸板があられもなく曝されてしまっていた。しかもサチの唾液と焼き魚のカスでひどく汚れている。
「あ、あはは。じゃあ行ってきます」
慌てて襟を正した俺は、乾いた笑いで誤魔化しながらそそくさとその場から逃げ出したのだった。




