第08話 比翼の玉壺氷(逆木家と死体)
「キョンシーは自立歩行するんだよ。こうやって腕をあげてピョンピョンってね」
入道雲の浮いた晴天下の国道を、白線の綻びをなぞるように外車が転がる。ホテルカルフォルニアを流して駆けぬける様子が、うらぶれた道にひどく場違いであった。しかし車は「スピードスター」の名に恥じぬ走りっぷりである。
蛇腹に畳まれた典型的オープンカーには乗車者三名。運転席でハンドルを切る月江院は、ミラー越しにユエン兄さんに目をやって「その映画ならずいぶん昔に見たことあるなあ」と相槌をうった。かけられたサングラスが太陽の光を反射して思わず顔をしかめる。私は顔をそむけながら隣りあったユエン兄さんに問いかけた。
「なんだってそんな非効率な歩きかたなの?」
「そうだね。でもこれ実は非効率だけど非効率でもなんでもないんだよ」
意味がわからなかった。非効率なのに非効率ではない。とんだ矛盾である。
「月江院がいうとおり、まあ昔流行ってた映画のイメージが定着したわけだけど、それにもちゃんとした理由があったわけさ」
「はてさて……」私は肩をすくめた。また長話がはじまりそうだった。
「もともとキョンシーっていうのは中国の苗族が行ったとされる趕屍術、死体移送法からといわれている。戦地で死を遂げたものを故郷に帰して埋葬するために死体を運ぶんだけど、つまり世にいう勘違い見間違いからきてるんだ」
「うう~ん……どこらへんが効率いいの?」
理解できずに唸り声をあげると、ユエン兄さんは少し困ったような顔をした。
「じゃあ想像してみて――戦争でも商売でもいい。出先で死者がでたとする。それを運ぶとなると人夫と荷車がいるよね。しかし問題がある。場所によりけり平原がずっとつづくわけじゃない。動かない屍を運ぶには難しい地形なんだ。山々が立ちはだかり雲がかるほどの崖にそって細い道があるばかりでね」
「中国には古くから落葉帰根という思想がある。かならず故郷には戻らなければならないのさ。それが死体であろうとね。人夫と一緒に山を越えるんだ」
「なるほどね。だからキョンシー化させて歩かせてたわけかあ~」
「護符で操られた屍がピョンピョン跳んで歩いてくれるんだから人夫はとても楽ができる。じゃあそのピョンピョン跳んでいる由来っていうのは何処からきたのか。ここを突きつめると真相にたどりつく。つまり人為的に運んでいたところを誰かが見間違いしたのさ」
「わかった。死後硬直で動けないからピョンピョン跳ぶしかなかったんでしょ」
私の思いつきには辻褄あわせの根拠があった。
しかしユエン兄さんは意地悪そうに柳眉を釣りあげて笑う。
「こじつけるなら実にもっともらしい。だけどキョンシーという非現実的屍である存在で考えるならば、その跳び方は単なる妖怪としての作法にすぎないだろう。忘れちゃいけないのが腕の位置だよ。両腕を水平にあげて両足揃えて跳びはねる。なぜ腕を水平にあげてと伝わったのか?」
「え、腕を水平にあげて跳んでるのを、誰かが見たからでしょ?」
前提としてキョンシーの珍妙な自立歩行は、見間違いをきっかけにするものだというのだから、この応答は道理にかなっていたはずだ。しかしユエン兄さんは非現実的と言葉にした。私はまま黙ってから改めて口を開いた。
これは現実と物語の一線を画す話であった。ようく考えれば妖怪なんてものはことごとく空想の産物である。古今東西ほんものが居たとしても、大概が恐れからくる思いこみ、周囲の念じた偏見による伝説なのだ。
「そもそもキョンシーっていうのが見間違いからきた存在ってことだよね……?」
重々しく答えるも、ユエン兄さんはしれっと話をつづけた。
「伝説上のキョンシーの元ネタである死体移送は人夫によって行われた。崖にそった細い道をはたして死体を担いで歩けるものか。彼らは賢かった。が我々からしてみれば、とくに日本人特有の穢れにたいする畏敬の念とやらでは考えられない方法を使ってみせた」
いわく竿竹二本を死体の両腕にくくりつけた。担架にして運んだのだという。
人夫が二人竿竹を肩で抱えるので死体の足は地面から浮いた。ゆえにピョンピョン跳んでみえたのだ。これで険しい岩山の崖ですら歩いていける。たとえ死体の数が増えたとしても数珠繋ぎに並べれば運んでいけるのだ。
「なるほどね~たしかに効率がいい」
私は唸り声をあげた。今度は感心の意味をこめて。
妖怪のキョンシーの歩行方法で捉えれば非効率も甚だしい。しかし死体移送のひとつの方法として捉えればもっとも効率がよかった。
国柄が違うと一言でいってしまえば簡単だろうが、この死体の扱いに関してはすでに歴史上の出来事であり、土地の問題もあるし根本からして我々の価値観と異なる俗習にのっとるものだ。
恐れと畏れが双璧をなすわけではない。
しかし彼らは恐れと畏れでもって蘇りし屍の妖怪を創りあげた。
何処の時代、何処の国であっても死は避けようのないもので、恨みつらみ怨念が残されているのではないかと恐れただろうし、同郷の者であればその死を畏れただろう。死体が勝手に動いてみえたのなら、それはそれは気味が悪かったはずだ。
月江院は交差点の黄色信号にブレーキを踏んで愛車のレバーを引いた。
そうしてガタガタ揺れる車体の後部座席をかえりみた。
「じゃあ護符は何だったんだ? お前の名前が書いてあったんだろ」
「あんなのただの脅しだよ。道教の護符でも裏側に名前を書くことで効果を表す対象を定めるんだよね。日本の神道でもあるだろう御札の裏に住所と名前を書かせたりするの」
「ああそういうことか。それで楓子ちゃんの背中に貼ったわけだ」
月江院は納得したように頷いたが当事者である私は納得できなかった。
私の物言いたげな眼差しをみてそっと哀れみの顔を向けてくる。
「まあ……店に籠もったきりのユエンに接触するよりかは楽だろうしなあ」
「来られても僕は交渉には応じないつもりだよ。あっちは学生だしね。でもそこで三千万以上を提示されれば話は変わるかも。彼が逆木家の正当な後継者になる可能性だって無きにしもあらず。でも未成年のうちは無理だろうからね」
「お前忘れちゃいまいか。あの壺は二つとも俺が買い揃えるんだからな」
ややあって信号が青色に発光した途端、車は排気音をたてながら急発進した。遠心力によって座席に埋もれた私とユエン兄さんはお互いに視線をやって苦笑した。
***
横浜市三ツ境は逆木家の屋敷を訪れた私達は、来客用の駐車場にて弁護士である三ツ境某氏に出迎えられた。
この弁護士の名前も然ることながら地名が表すとおり周辺一帯は大地主であった逆木家に関わるものだった。屋敷の出入口にある国道を一本挟み、対岸にある大病院もまた名家の資産家らしく逆木家のものである。
時代が時代なら殿様。真実は如何ほどであろうが、名実相伴えば甲斐武田の嫡流である。さぞ地元民から親しまれ恐れられ疎まれてきたことだろう。
逆木家の屋敷は途方もない森林に構えられていた。道沿いに延々とつづく鬱蒼とした木々に隠されて、表世界からは屋敷の実態はまったくわからなかった。ナビゲーション上にある間道にハンドルを切った月江院が「まるで避暑地の豪邸だな」という。私はそこがすでに敷地内であることに気がつかなかった。
敷地の正門から屋敷までが遠かった。正門は監獄の鉄柵を思わせる。それほどに厳重であった。現代科学の恩恵を受けて鉄柵はオートメーション化されていて、インターホンを鳴らして来訪を告げれば自動で開閉した。
陸の孤島であるミステリー小説のいち場面のような閉塞感のある一本道を抜けると、これまたサスペンスドラマの舞台にふさわしい洋館が現れたのだった。そうして私達は玄関前で待ちかまえていた弁護士の誘導でロータリーを迂回して庭先にある駐車場にたどり着いた。
「顧問弁護士の三ツ境と申します。本日は逆木家に連なる親族方のみご参加のみとなっておりますので、禹袁様方をのぞきお客様はおりません。間御三方には別館のゲストルームでお寛ぎくださるよう道真様から言付かっております――」
「楓子ちゃん道真って誰?」「逆木さんの名前ですよ」
歩きだしたユエン兄さんの背後で月江院とコソコソと話をする。
私達三人は逆木家で開かれる親族会議に同席するため集まった。本日は遺産相続に関する話しあいが行われる。その立会人として逆木家を訪れた。
骨壺の所有者であるユエン兄さん、呪いありきで壺を購入予定の月江院、そうして私はただの付きそい、つまりユエン兄さんの助手として参上したのであった。
「皆様が集まりしだい本館大広間にて話をはじめさせていただきます。開始時刻は十二時を予定しておりますので、それまでご自由にお過ごしください。ただし別館内に限りますが……ご容赦ください。給仕係がついてご案内いたしますので」
「いいえこちらは問題ありませんよ。ただ誰か屋敷に詳しい方いらっしゃればゲストルームでの給仕はそちらの方にお願いできますか?」
弁護士の案内で屋敷に踏みはいる。まるで栄華極めた鹿鳴館のダンスホールさながら、上流階級の交友場であるような玄関口だった。エントランスの天井には豪奢な硝子照明が煌めいている。床に敷かれた真紅の絨毯は、正面からある大階段の頂上にまで縫い目なく広げられていた。一言おハイソである。
その大階段中腹に見覚えのある人物が立っていた。
「三ツ境さん、そちらが例の骨董屋の方ね?」
伯爵夫人邸で垣間見たあの美しい女だった。豊かな黒髪をまとめあげた有閑夫人の装いとはうって変わり、今日はなにやら若々しい。というより実際若いのかもしれない。女は薄水色のワンピースを閃かせて階段を降りてくる。そうして会釈すると微笑みを浮かべた。
「逆木美帆と申します。袁さん達のことは道真さんからお話はうかがっていますよ。あいにく本人が急用で外に出ておりまして、帰ってこられるのも十二時を過ぎてしまうようなのです。役不足かもしれませんが道真さんに代わってゲストの皆さんのお相手を務めさせていただきますね」
「ええ――よろしくお願いします美帆さん」
ユエン兄さんは余所ゆきの顔を浮かべた。
つづいて私達も名前をつげて挨拶をかわした。
異様な雰囲気が漂っていた。両者ありありと猫を被っている。そのことに私だけが気づいているようだ。女はさも初対面かのように振るまっている。至極冷静であって微塵も動揺は感じられない。大概の女性ならばユエン兄さんの容貌をひと目みて狼狽えぬはずがないものを。
ところが対面した女は素知らぬ顔をしていた。たんに好き好きの問題であるかもしれない。だが先日接触してきた少年のこともある。わざわざ秩父くんだりまでやってきた女である。逆木本人に詰めよるまでもない。
女は端からユエン兄さんの顔すらをも知っていたのだ。
そうして高い確率で逆木は女に逆らえぬ立場にある。
内に敵ありのメッセージに当該する人物。十中八九この女のことだろう。
「ではこちらへ。この先にある奥の部屋がゲストルームになっています。庭に面したテラスから外に出れますので、ご希望であればそちらもご案内しますよ」
ユエン兄さんは気がついているのかいないのか先導する女についていく。
私は口をはさむ猶予もなく押し黙ったまま後につづいた。
「楓子ちゃん役不足の誤用って知ってる?」
ふと隣から話をふられて藪から棒になんのこっちゃと眦を下げる。
「この家の人間はいわゆるいけずってやつだな」
月江院は口の端を吊りあげて笑った。勉めて静かにつぶやかれた言葉は、どうやら先行者の耳には入らなかったようだ。私はほっと胸を撫でおろした。
同時にこの浮世離れした何処ぞの次男坊には期待していた。暗雲立ちこめるミステリーとサスペンスの舞台で危機感なく狂言回しができるのは、きっとユエン兄さんをのぞき部外者である月江院だけであろうと思った。
案内されたゲストルームは外国の歴史建築物の客間そのものだった。
文化価値のあるライヤンリーも負けず劣らず古いものだが、逆木家の屋敷は古くとも整備されて清潔だった。扉や窓や柱の木枠は真新しい塗装が重ねられて朽ちた部分は見当たらない。装飾の家具類もホコリすらなく室内にはハウスダストの類ひとつとしてなかった
別館を外国から移築された洋館とするなら、本館は和洋折衷の明治大正ロマンめいた豪商の町屋である。ツギハギされた廊下同士の敷居を越えれば典型的な日本屋敷であって、親族会議が行われる大広間はそちらにあるようだった。
私と月江院は給仕係の女から紅茶をいただき、ユエン兄さんはサンテラスに出て美帆なる女から庭園の説明を受けていた。
鎌倉にある文学館のように建物のある土地は小上りになっており、段差が設けられた下方には青々しい芝生が広がっている。室内に着席したところでサンテラスの垣根の向こうに青空の地平が拝めるようになっていた。
マイセンだかコペンハーゲンだがウエジウッドだかの名だたる陶磁器だろう、来客用のティーカップに用意されたバラの着香茶をたしなむ。他人の持ち物なのに茶渋がしみ渡るのを案じてしまうのは生まれながらの貧乏性によるものだ。しかし高級感ただようもてなしに気分は良くなり肩の力も抜けてくる。
「ところで逆木家でおこった忌まわしい事件について聞きたいんだが?」
「え……お客様それはわたくしの口からはちょっと……申しあげられません」
「なら無理強いはよそう。お茶をありがとう。おかわりのときは鈴を鳴らすさ」
おもむろに月江院が給仕係を困らせはじめた。突拍子もない話題をふられて給仕係は戸惑いながらも支度を整えて仕事をまっとうした。そうして安堵のため息をもらすと鍍金の呼び鈴をローテーブルに置いて、いそいそとサービングカートを押して部屋から出ていった。
「あの月江院さん、忌まわしい事件ってなんですか?」
そんな話は聞いていない。有名な出来事なのだろうか。
おハイソ気分に浸っていたところに横槍を入れられた気分である。
私はティーカップ越しに訝しみうかがった。
「忌まわしい事件は忌まわしい事件だよ。こういった古い家ならそういった話はゴロゴロしてそうなもんだからカマをかけてみた。どうやら本当にあるらしい」
「はあ~……でもそんなこと聞いて一体どうするつもりなんです?」
「いや、暇つぶしに楽しいかなって思ってな。なにしろ逆木家はこの土地と密接に関わりがあるわけだ。元地主とはいうが世間からしたら現状お殿様に違いない。土地の名前からして吝かな、のっぴきならない事情があるもんだろう、そういうのを期待してだね」
そんなもの普通そうそうにない。こと神奈川横浜市の旧家である。近代化の大波に煽られれば民間信仰やら一族代々の因習やら儀式なんかは、ぞくぞくと洗い流されてしまった。しかしちょっとでも古いものと関われば期待してしまうのは性なのだ。こういうのをゴシップ好きミステリーかぶれというのだろうか。
ところが月江院がカマをかければ、事実そのような出来事があっただろうと思わせる対応であった。何かしらの忌まわしい事件を忘れさるために、家人以外にも箝口令が敷かれている。
「まるで金田一シリーズみたいですね。獄門島でしたっけ?」
一族の問題によってしょうじた内輪揉めによる悲劇だ。喜劇ともいう。
ふと今しがた思い出したように月江院がつぶやいた。
「事件といえば……つい先月この近くの森林公園の雑木林で白骨死体が発見されたそうだけど、それがわずか一週間前に行方不明になっていた少女のものだというんだから、不思議なもんだよ」
「ずいぶん詳しいんですね……そんなニュースやってました?」
「大々的にはやってなかったな。なにしろ行方不明になった女子高生のことはネット記事でしかお目にかかっていなかったから。共通点があったなんて驚きだ」
ニュースに疎いわけではない。テレビ上のワイドショーでまったく見かけなかったのだ。朝一番の国営放送では流れたかもしれないが、犯人逮捕前であるから少々規制されているのかもしれない。とんとワイドショーで扱われる様子はなかった。すると月江院は大衆雑誌から情報を得ていることになる。
私は身近で起こった猟奇的殺人事件に身震いした。一週間内で白骨死体となるのかはさて置き、月江院の口ぶりからして部分的なものではなく、粗方肉を削がれてしまった白骨死体のようだった。
動物に食い散らかされるにしても雑木林とて横浜市内に違いないのだ。野犬がいれば捕獲されるし山奥でないから猪だっていない。腐肉が虫や微生物に分解されるのには間に合わない。たった一六八時間で起こりえないことだ。
「たったの一週間で白骨死体になるんでしょうか?」
「時期と状況によってはなるね。死体って不思議なものでさ、温度と湿度がわりかしいいと蝋化したりするんだよ」
死蝋化とは死体の脂肪分が石鹸のような状態に変化することだ。
一見してロウソクの蝋に包まれた姿に見える。だから死蝋と呼ぶ。
「土葬していた時代、たったの一メートルも離れていない墓穴で、白骨化した遺体と死蝋化した遺体があったりね。そんな風にちょっとしたことで状態ってものは変わるんだ」
月江院の言うとおり自然の力で白骨化した可能性はある。しかし梅雨入り前の季節柄、それはないだろうと確信していた。
「けれど殺人事件なら犯人が死体を放置するのにあたってバラバラにしたり、肉を溶かしてから遺棄したりってよく聞く話じゃないですか」
月江院の言うちょっとしたこととは、この場合、宝くじの末尾が当たる程度のような話ではない。なので自然的に白骨化したものではない。そうやって推測した。つまり人の手によって全身の肉が除去されたゆえの白骨死体である。
でなければ行方不明から一週間、それも死亡日時がわかっていないのだから、短期間のうちに白骨化するなんて奇跡でも起きなければ土台無理だ。聞くところによると部分的にという話でもないらしい。
「若いから頭蓋骨も綺麗。肋骨も骨盤も綺麗に服の中におさまっていたという話だよ。事実は小説よりも奇なりとはいうけど絵画みたいな構図だったんだろう」
「はあ~もうそれは未解決事件のなかでも神がかった部類にわけられますね」
同年代の女子高生が事件に巻きこまれた。想像するだけで喉元がぎゅっと絞まった気がする。胃液が荒波のように溢れて胸焼けすらした。そこをぐっと堪えて紅茶を飲み干す。
傍観者である一般庶民にとって忖度された情報など、公開されたところで忘却の彼方である。真相になにが絡んでいるのか明かされる機会などいくらもない。もしや犯人の家族親類、姻戚者に大物政治家、その関係者がいたのかと疑って、それで終わりだ。
土地柄に当てはめれば大地主である逆木家が関わっている可能性もある――。
そう考えついて私は頭を振った。
いつの間にやらテラスから帰還したユエン兄さんが対岸の席についていた。その隣には美女が腰かけておりローテーブルにある呼び鈴を鳴らしている。教養は細部に現れるようで、小さな鈴を鳴らす仕草さえ絵になっていた。
感心して惚けている私を他所に、ユエン兄さんが呆れたように言う。
「他所様のお家でなに恐ろしい話をしてるんだい」
「まあすぐ目と鼻の先での事件ですから仕方がないですね」
女こと美帆は苦笑しながらも、かけつけた給仕係から紅茶を受け取ってユエン兄さんへ手渡した。湯気をあげた紅茶からは真新しいバラの匂いがする。鼻腔を満たす豊満な花の甘みにユエン兄さんは薄く顔を顰めていた。
「あら袁さん、お気に召しませんでしたか?」
「滅相もない。こういった洒落た紅茶は飲む機会がないので」
しかしユエン兄さんは高級茶を嗜む。その言葉に美帆は気を良くしたらしく滑舌になった。謙遜するのもタイミングだなと私は学んだ。
「月江院さんが話されてた事件、じつのところ逆木家とまったく無関係というわけではないんです。被害者の女の子に少し関わりがあってまっさきに警察から疑われたんですよ」
美帆は淀みなく語った。
「うちの親戚の子と被害者は友人関係でしたから。最後に見かけられたのもすぐ側だったので。けれど殺害する動機なんてまったくないうえに、しっかり監視カメラで確認された時間帯にはうちの者皆にアリバイがありました」
「アリバイ?」
「ええ。あの日は、祖父を荼毘に付してからようやく遺言状公開ということで、本家の大広間に集まっておりました」
容疑者が親戚筋であったという。少し関わりがあるどころではない。両者は友人関係であり行方不明になる直前、最後に接触した相手として容疑者リストに浮上した。それが逆木家の女子ならば、とてもじゃないが無関係とは見れず、疑わざるをえない話だ。
遺棄された場所も近いというので事情聴取を受けることは避けられない。警察にとって口頭のアリバイとはアリバイに成りえない。思いこみとは初動捜査の妨げになるものだ。なにしろ先日の窃盗未遂の空き巣によって指紋採取の経験があるので、私はそう断言できた。
「となればあの日一堂に会していた逆木家の皆さんはアリバイがあるからこそ、逆に疑わしく思われてしまったということですね」
ユエン兄さんが悠々言ってのけるので、美帆は面食らったような顔をした。
「袁さん一体どうしてそう思われたんです?」
「こういう話があるじゃないですか、犯人はそこにいた全員だったって」
他所様のお家でと警告したその口でぬけぬけと言う。
隣をうかがえば月江院は紅茶を飲むふりをしてティーカップの陰で笑っていた。逆木家の者には気分のいい話題ではないはずだ。さぞかし不快だろうと思われたが、しかし美帆は穏やかに微笑むばかり。
「それこそ動機があってのお話で、それに現実の出来事じゃないでしょう」
そうして女子高生白骨化事件の話は締められて、話題はもっとも重要な、逆木家親族会議の主題へと移っていった。
私はなんだか腑に落ちなかった。そもそも美帆は出会い頭からして嘘をついていたのだ。その前提があってこそ腑に落ちなかった。
完璧な微笑みを浮かべる美帆は、戦前教育の御令嬢のイメージを、まったく完璧になぞった深窓の淑女であった。ユエン兄さんの不躾な発言に対して気分を損ねず、まったく微塵も動揺しなかった。
さりとて感情は表情や仕草に必ずでるものだ。そこをぐっと堪えることができたことにだって理由がつけられるはずだと思った。
つまり嘘をついているのではないかと――。
そうやって考えているうちに重要な話も一区切りついて、膝元のローテーブルには空になったティーカップが揃えられた。
「予定まで時間ありますね。よろしければ庭園の一部をご案内いたしますが」
「ぜひとも。聞くところによれば逆木さんの家は独自の宗教観をお持ちだとか?」
美帆の誘いに声をあげたのは意外なことに主賓であるユエン兄さんではなかった。一族の忌まわしい出来事、女子高生白骨化事件の容疑につづいて、またもや私の知りえない情報である。
月江院はぬかりなかった。どうやら情報収集に関しては、大衆雑誌のほかにも利用できるものは利用しつくしている様子であった。
「どこからお聞きになりました?」
「界隈では有名ですよ。逆木さん家の御神体はかぐや姫のミイラだって話はね」
したり顔でいう。月江院の美帆を見つめる目にキラリと光るものがあった。